美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 **自宅でログイン出来ないので、現在「遊行七恵、道を尋ねて何かに出会う」で感想を挙げています。

アルバレス・ブラボ写真展 メキシコ、静かなる光と時

メキシコ。
自分の中ではとてもとても遠い地。
もしかするとブラジルよりアルゼンチンよりスリランカより遠い地かもしれない。

メキシコの文化もあまり知らない。
子どもの頃に最初に「メキシコの」だと認識したのは服を着た骸骨のダンス、サボテン、ソンブレロ、テキーラ、暑苦しい絵画。
マヤとかアステカもこの辺りだと知ったのはもう少し後。
それからミル・マスカラス、革命児サパタ、フリーダ・カーロ。
更に後年、上流階級はフランス人が多いということを知った。
正直、本当にわたしには遠い地だ。

世田谷美術館でアルバレス・ブラボ写真展が開催されている。
副題は「メキシコ、静かなる光と時」である。
2009年にメキシコ20世紀絵画展をここで見ているが、それ以来のメキシコだと思う。
当時の感想はこちら

イメージ (16)

とにかくメキシコといえば褪色した極彩色、寂れ方の著しいところ、濃く・暑苦しい絵画などのイメージがある。
あと、現在上映中の映画「ボーダーライン」もメキシコが舞台か。
それから1981年頃の映画「ザ・ボーダー」はステーツ・デザーターというのか、密入国の取り締まりと逃がし屋の攻防の話だったと思うが、主題歌がライ・クーダーの「アクロス・ザ・ボーダーライン」で、こればかりは今も耳に残っている。
そうそう、骸骨のケーキがあるのを知ったのは藤子不二雄「魔太郎が来る!」からだった。
ああ、フジタが彷徨ってもいるな・・・
いや、それよりもなによりも「ジョジョ」の石仮面はこの地から出たのだ。

いささか鬱屈を抱えたまま砧公園へ出かけた。
最近は静嘉堂から徒歩で行くのがお気に入りである。

アルバレス・ブラボという写真家は1902-2002年の間生存していた。20世紀を丸ごと生きたのである。
彼の活躍期は1920年代以降で、世界的にわたしのいちばん好きな時代である。
その中でピクトリアリスムからモダニズムへとブラボは移行する。

イメージ (17)

第一部 革命後のメキシコ 1920-30年代
1.モダニズムへ
情緒というものを極力排していった作品群がある。
そもそも情緒とは何か。
湿気または温気だと言ってもいい。
感情にその湿気または温気が含まれることで、ある種のやるせなさとせつなさが加わり、それが観る者の心情を柔らかにする。
しかしここにはそんな湿気も温気もない。
あるのは乾ききった砂と熱風とどうしようもなくギラギラ輝く太陽と、それに晒された風物だけだ。

わたしは抒情性を大事にする、やや過剰なしめりけを愛する性質なので、これらの作品群を前にして、喉だけでない渇きを感じた。
とはいえ中には可愛らしさが表面に漂う作品もある。
カボチャとカタツムリ、皮をむいたヒカマ、木馬などである。

ネガも共に展示されていた。
白黒反転していて、それがけっこう面白い。

2.ざわめく街の一隅で
見ていてやはり乾いてしまった。

水をまいても撒く先から水は乾燥しては消えてゆき、痕など何にも残らない。
そんな状況を思わせる作品が少なくなかった。

豚の生皮を干しているところに幼女がいる。
豚の皮もパリパリになりすぎ、使い物になるのか心配になる。
幼女も今は幼女だが、時間の経つのが早くなりそうな予感がある。

最初に評判になった「眼の寓話」をみる。
眼科の看板を裏焼きにしたもの。
これをみると日本の片田舎の小さなお堂にかかる「め」「めめめ」「めめ」などと書かれた絵馬、それが無数に飾られている恐怖など消えてしまう。
怪異な状況よりも現実の方がより恐ろしいものだ・・・

この作品はブレッソンと二人展のときにも使われ、代表作になったそうだ。
ある種のユーモアも感じる。

身をかがめた男たち COMEDORと書かれた店に並んで座る男たちの背。様々な座り方をしているが、「昼間っから飲みやがって」というキモチがわたしの中にはある。
なお「コメドール」と読み、食堂の意味。コメダではない。

コヨアカンのライオン 公園内の作り物のライオン像が転がっている。カメラワークが良いので、ついつい首を伸ばすと、こっちを向くライオンに睨まれてしまった。

この辺りからタイトルと対象物との関係性に、ある種の面白味が生まれてくる。

トラックに乗った天使たち 天使像、運搬中。しかも決してピカピカではなく、薄汚れていそうである。

訪問 ちょっと変わった顔のイエスの像がある。お断りしてしまいそうである。
しかしこのタイトルを見てやはり思い出すのは萩尾望都「訪問者」である。
イエスが猟師の家を訪問する。しかしそこには飢えた子どもたちがいる。イエスは帰るしかない・・・

黒い哀しみ 道を行く黒ずくめの女。日影を行く。窓の装飾も元は綺麗だったろう。
以前、似た取り合わせの写真をみたが、写真家の眼の違いが大きく、全く別な雰囲気をみせていた。

空に自転車 ・・・今ならトマソン。

第二部 写真家の眼 1930―40年代
1.見えるもの/見えないもの
この時期の写真がいちばん面白かった。
何故かというと、意図的にドラマ性のある<情景>が選ばれているからだ。
そしてそこへセンスのいいタイトルが付けられている。

鳥を見る少女 日本のお寺の門のような門前にも身なりの貧しい少女がいる。
彼女は日を二の腕で避けながらも鳥を見ている。写真家は鳥は追わない。
しかしそこに鳥はいる。鳥を見る様子の少女がいることで、そこに鳥が存在する。

消された扉 その扉の前に木組みの格子檻のようなものがある。塞ぐことで、見えているものであってもその存在は消されたのだ。

冬について ステンドグラスが捨てられていた。元の状況はわからないし、何故季節が冬なのかもわからない。しかしこのタイトルとその情景の関係性は魅力的だ。
モダニズムからさらに一歩進んだ感じがある。

舞踏の王と王妃 滑稽な像、廃墟の中、そこにそのタイトルをつける。

舞踏家たちの娘 チラシ表の少女。丸窓をのぞく。建物ももうぼろぼろ。少女も動きを持たない。

様々な人々の姿を捉える。
観るうちに、人々は無口で鬱屈していそうだと思った。

犬と雲の寓話 掘立小屋に青空。痩せた犬。犬はメキシコでは死者を導く存在だとみなされているらしい。

黒い鏡 黒人女が裸で体操座りをする。爪の白さが眼に残る。

2.生と死のあいだ
メキシコは生と死の循環が激しいような気がした。
だから骸骨のキャラが立つのかもしれない。
ここでの死は乾いている。

ストライキ中の労働者、殺される
民衆の渇き
ブラボはこの二点を対で見てほしいと思っていたそうだ。
1930年代、時代は確実に悪化している。

死後の肖像 ミイラ、ですか・・・

眠れる名声 裸婦がいる。濃しと足首とに布を巻くが、後は晒されている。見えてしまう。
このシリーズのモデルは魅力的だった。

3.時代の肖像
メキシコの有名人たちの写真が並ぶ。
ディエゴ・リベラ、フリーダ・カーロ、ルフィーノ・タマヨ、セルゲイ・エイゼンシュテイン、レフ・トロッキー、アンドレ・ブルトン・・・
そうだ、トロッキーはメキシコで暗殺されていた。

第三部 原野へ/路上へ 1940―60年代
1.原野の歴史

頭蓋骨、遺跡、トゥルム  イメージ的にはサボテンがあってドクロが風でカラカラ…と鳴ってそうなのだが、そうではなくて骸骨ぽい岩がある、という情景だった。
これが日本だと福原での怪異とか熊野の野ざらしとか色々あるが、ここはメキシコでした。

壁のうしろ、リュウゼツラン  …この構図をみて「ヒルコじゃーっ」と思ったのはわたしだけではないはずだ・・・

そして夜ごと、嘆き悲しんだ  変な木の塊りがあるのだが、木にされた人々の悲しみといった妄想が湧いてくる。

六のウサギの日  これはアステカ暦。そうだ、メキシコはアステカ文明の地だったのだ。

風景を撮った作品には物語性を感じるものが多かった。

2.路上の小さなドラマ
少年、少女、通行人、わんこ…
どうしてかガルシア・ロルカ「暗殺の丘」を思い出した。
直接的な関連はないのに、それを思い出させる作品がいくつかあった。
だがそれはブラボの意図したものではないだろう。
わたしが勝手にそう感じているだけなのだ。

そしてこの章では貧しさを目の当たりにする写真が多かった。

贋の月  壁に○の光が浮かぶ。それをさしている。
そしてそのスピンオフ作品もある。

第四部 静かなる光と時 1970-90年代
1.あまねく降る光

リュウゼツランの上の窓  再びヒルコ登場。

壁に手 壁に手形がついてるーーーーっこわい。

シトララの少年 仮面を外し顔を見せる少年。ただ、彼が何故そうしているのかはわからない。

2.写真家の庭
禁断の果実 大きなムネが片方のぞく。そうか、そういうことか。

晩年、1995―97年にシリーズ「小さな空間に」と「内なる庭」がある。
ここで非常に美しいピクトリアリスム的な作品があった。
植物の影。モノクロのその濃淡。
静かに美しい作品だった。

メキシコに鬱屈しているようなことを書きつつも、こうして深く楽しませてもらった。
わたしは(メキシコに)行くことはないだろう。
しかしこの写真を通じたメキシコのイメージは、今後わたしの中で生きてゆくのを感じる。

8/28まで。

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