美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 **自宅でログイン出来ないので、現在「遊行七恵、道を尋ねて何かに出会う」で感想を挙げています。

日本近代洋画の巨匠 和田英作

小磯記念館で和田英作展が開催されている。
和田英作と言えばわたしの場合、最初に思い出すのは歌舞伎座に掛けられている「くものおこない (衣通姫)」、東京藝大美術館の「野遊び」の二点。
どちらも天平風俗の美しい娘たち。
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2作の間には20年の歳月があるが、どちらもとても美しく、浪漫に満ちている。

和田は70年ばかり活躍したが、フランスでコランの指導を受けた頃は外光派らしい光を取り込んだ絵を描いていたが、やがて変わった。

作品の前に白馬会の集合写真などを見る。
思えば九州出身者で成立しているのだった。
丸顔の黒田、細面の久米、ニコニコひょうきんな三郎助、釣り目の武二、和田はちょっとばかり詩人の高橋睦郎に似ている。
どこかの温泉に行ってご機嫌な面々。

和田は1901年27歳でフランスのグレーに住んだ。
グレーと言えば浅井忠。その浅井忠と一緒に「愚劣日記」グレーにっき を記したり。
浅井忠は当時40代半ばだった。帰国して浅井忠は京都で弟子たちを育てる。

和田の師匠は曾山幸彦―原田直次郎―黒田清輝と移った。
若いうちから非常に巧かったが、色々あってしょぼんとなったそうである。
語学力の高さは定評があったそうだ。
そしてしょぼんとなった和田は静岡の清水へ旅に出て、そこで自己回復する。
富士山の下で元気になったのだ。そして富士を愛し、富士を描いた。
だから後年和田は「富士薔薇太郎」と呼ばれたそうだ。

1.洋画家として歩み始める
藁を編む少女 1896 この絵は岡田三郎助も同じ構図で描いているそうだ。三郎助のは見ていないが、彼の少女はより愛らしいのではないかと想像する。
そしてその写生帳が出ているのだが、ペン画の方が本画よりよかった。挿絵のような物語性があるからかもしれない。

渡頭の夕暮れ 1897 夕暮れの彩色がいい。疲れて渡し船を待つ人々の様子はなんとなくせつない。矢口渡らしい。そう、芝居の「神霊矢口渡」のあれ、新田義興の故事があるのだったかな。今の多摩川の方だそうだが、わたしには土地勘がない。

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秋草 1897草の生い茂る庭の一隅、井戸のわきにはポンプらしきものがあり、少女が水を汲んでいる。秋の日差しが少女にあたる。
若い頃だからこそ描けるような瑞々しさを感じた。

フランス留学時代の絵を見る。
思郷 1902 パリの日本料亭・巴屋で働く板原はつ子を描いたもの。故郷を想う娘の表情。
この絵は本当は全体の左側で、窓の向こうにはエッフェル塔などが描かれていたそうだが、コランの助言で二つに割ったらしい。そうなると娘のメランコリックな感情がよりはっきりする。
いい助言を受けたと思う。
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マダム・シッテル像 1903 下宿の夫人。とても親切な人で日本人を大勢受け入れてくれたそうだ。和田も良くしてもらったようで、描かれたマダム・シッテルはとても善良で優しそうに見える。

ミレーの落穂拾いの模写やフィレンツェの風景写生などもある。
豊かな成果があったのだ。

2.白馬会・文展で活躍
前掲の「くものおこない」がある。

新聞を読む女 1905 束髪の婦人が熱心に読む。この時代は新聞ブームで日本画でも新聞を読む女の絵がある。
和田は他にも寝転んで新聞を読む少女を描いている。
識字率の高さを改めて想う。

岩崎弥之助高輪邸舞踏室の壁画下絵案 1905 春秋の景色を描こうとしたようで、渓流や湖月、能面と三味線の組み合わせなどの絵が見受けられた。
横長画面に能面と三味線というのは、初代尼崎市長でもあり川村清雄の弟子でもあった桜井忠剛が欄間のために描いたものと同じで、当時はまだ「油絵」が日本に浸透していなかったため、家に飾る・使う絵は衝立かこうした欄間などが多かったのだ。
桜井の仕事も同時期なので、東西ともにそうした傾向があったのかもしれない。
とはいえ高輪邸は洋館で、しかも舞踏室なので、外国人向けにわざわざそうした絵をあてたのかもしれない。
なお、この建物は現存するが(開東閣)、中は完全に作り替えられている。

大正に入ってからは肖像画も出てくる。
きりっとした高橋新吉、稲川淳二風な雨山達也、パブリックイメージそのままの福沢諭吉、それから浜辺の澁澤秀雄。
最後の絵は肖像ではなくモデルとしての絵。和田は美術学校の水泳部長で、伊豆の土肥に学生を引率していったときに、麦わら帽子の澁澤を描いたそうだ。

富士、バラの絵も多くなる大正時代。
もうこの頃には外光派の名残はない。

松島五大堂 1918 つい先々月末に行ったので、建物に実感があるわたし。
夜明けの最中のお堂。いい色。

あけちかし 1916 十二単で目のクリッとした麿眉の婦人が机に向かっている。そう、このポーズは紫式部。
石山寺で執筆中の様子。灯をともし窓際にいて、その窓の向こうではまだまだ夜なのだが青さが薄くなりつつある。山の端は赤く、明らんでいる。
かなりリアルな感じがあり、それについて発表当時、石井柏亭から「今の女の仮装かと思った」と批判されたそうだ。
古代感は確かにないが、活きている感じはある。
1925年にはもっとリアルな感じのする「近江石山寺紫式部」があるので、批判はスルーして、自分の思うとおりに描き続けたのだろう。

田園の夕暮れ 1920 ドイツロマン派風な趣があり、雲は赤黒い。

3.洋画界の指導者へ
ここで和田と小磯良平の唯一の接点が紹介されていた。
小磯は武二の弟子だから教わることはなかったのだが、この卒業写真では集合ものなので一緒に写っている。

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横2Mの大きな絵がある。フラ・アンジェリコの受胎告知の模写で、実測の1/3サイズ。ガブリエルの羽根の五色がなんだか東洋風な配色に見えた。あれだ、舞楽の胡蝶そっくり。1922 既に立派な画家として立っていても、こうして研鑽をつむことをやめなかった。

三保の松原 1911 外から見た風景ではなく、中に入っての風景。土、松、すぐそばにあるもの。

山本有三の戯曲「指鬘縁起」のための舞台装置の下絵もある。1923年頃。帝劇で上演。わたしが調べたところその年の2月だったようだ。
婆羅門とその妻と弟子との三角関係。
なんとなく知ってる気がするな…
第一幕「室内」 緑色のカーテンやランプなどがエキゾチックな魅力に満ちている。
第二幕「洞窟」 展示なし。
第三幕「密林」 たわわな様子。カラフルな木々。
大正時代の舞台装置はなぜこんなにも魅力的なのだろう・・・

和田英作と帝国劇場との関係はとても深い。先年早稲田演劇博物館で「よみがえる帝劇」展が開催された時、和田の製作した壁画や天井画などが紹介されていた。
今回の展示にはないが、一部ご紹介する。
また、前述展の図録に「和田英作と帝劇天井画」(増野恵子)という論文があり、これがとてもよいものだった。
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和田の愛した薔薇が描かれてもいる。

富士(河口湖) 1926 明るい、とても明るい。それも1950年代の明るさ。未来を信じる昭和の明るさがあるではないか。
他の富士もいいが、ベストはこれかもしれない。

薔薇の絵もある。布や瓶に東洋風な典雅な趣があり、薔薇が牡丹のような立場を示していた。

天平の女 1924  背後に興福寺の塔が立つ。なんとなく見た記憶があると思ったら「婦女界」の表紙絵原画。
この時代の雑誌は優れた画家たちの作品がたくさんあって、とても楽しい。

野遊び 冒頭の絵。藤、が下がる木下を馬酔木、躑躅などを髪にかざした娘たちが行く。手に手に楽器を持って。
その足元にはスミレや蒲公英。本当に魅力的。

この絵の下絵が三枚ばかりでている。中には以前から見知っていたものもあるが、一つ初見で、その当時の婦人をモデルにしたものがあって、それもなかなかよかった。

乙密台(平壌) 1924 婦女界表紙絵  額の美しい韓美人。
高野山(南海道)1925 婦女界表紙絵 耳隠しに和装でストールをまく美人。
睡蓮 1925 キング表紙絵  古代美人が睡蓮を頭に飾る。
佐保媛 1925 キング表紙絵  桜を頭に飾り、華籠にも盛る。
和田英作はキング誌の創刊号から表紙を度々担当している。

4.東京を離れ、愛知・知立、そして静岡・清水へ
疎開である。それも縁もゆかりもない知立の駄菓子屋さんの離れを借りたのは奥さんの尽力。しかし歓迎され、当人も機嫌よく過ごしたそうだ。
やがて晩年、自分を再生させてくれた富士山の見える地へ移る。

上の御堂にて 1945 釈迦三尊像に四天王のひとりが描かれている。松に躑躅がいけられていた。壇には巴文がついている。
戦後の鎮魂のキモチだろうか。

古驛近く(知立東口) 1947 松並木が薄く金色に光る。

知立と言えば八ッ橋、杜若。
そのカキツバタ保存に奔走した杉浦・野村兄弟の肖像画がある。
とてもいい感じ。

かきつばた(小堤西池) 1949 油彩と言うより水彩に見える。池の水の光の変化が美しい。

三保の松原、三保富士と好むものを描いている。

最後に静岡市庁舎のために描いた「真崎からの富士」がある。1955 最後まで富士が好きだったのだ。

いい展覧会をありがとう。

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