美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 **なお現在コメント欄を閉鎖中です。

「折口信夫と『死者の書』」展と近藤ようこ『死者の書』下巻感想など

國學院大學の博物館で「折口信夫と『死者の書』」展が開催されている。
チラシには近藤ようこさんの『死者の書』ヒロインの藤原南家の郎女がいる。
この小説を小説以外にかたちにしたものは川本喜八郎の人形劇映画と近藤さんのマンガ、この二作がある。
(冒頭の滋賀津彦の目覚めのみ、演劇のシーンとして松浦だるまさんが『累 かさね』で描いている)
イメージ (8)

わたしは久しぶりに映画『死者の書』を観ようと思い、申し込んだ。2時からなので先に博物館に行く。
そこでは近藤さんの原画の展示もあるのだ。
すると館内では『死者の書』についての講演会が開催されていて、大勢の聴衆が詰めかけていた。
映画の事ばかり考えていて、その前の時間にここで講演会があることを調べていなかった。
お邪魔にならない場所でそっと聞いたが、作中の表現から色彩などに活きる官能性についての指摘もあり、興味深い内容だった。

折口の自装本をみる。可愛いものが少なくない。
わたしの持つ『死者の書』は『山越の阿弥陀像の画因』が共に収められているもので、後に『口ぶえ』または『身毒丸』が収められた文庫が刊行されたときは、それをにくんだ。
だが、『死者の書』をさらに深く理解するためには先の取り合わせが良かったとも言える。
にくんだのは、わたしが少年愛に惹かれているから、というだけの話。

ところで数年前、『初稿・死者の書』という本が出た。
その書評を今も持っているので挙げる。拡大できます。
イメージ (15)

近藤さんの原画を見る。黒が活きて、物語の闇と呼応している。
それを見ながら『死者の書』下巻の感想を挙げていないことを思い出す。
上巻は挙げていたのにどうしてか下巻を挙げていないのだ。
上巻の感想はこちら

近藤さんの描いた『死者の書』の下巻の感想についても書きたいと思う。
イメージ (11)

上巻の最後で貴い身分の姫が自らの進退について
「姫の咎は、姫が贖う。此寺、此二上山の下に居て、身の償い、心の償いした、と姫が得心するまでは、還るものとは思やるな。」
と言い切った後からの物語である。

近藤さんの描く婦人はものを考える人である。
程度の高い低いはあっても、物事を考えることをやめない。
何を考えているのかは問題ではない。
そのことからだけでも、『死者の書』はやはり近藤さんが描くべき作品だと言える。

折口の『死者の書』は<智慧>についても考えねばならない作品である。
貴人である藤原南家郎女が自らの智慧で言葉を発し、行動を起こす、そのことの意味の大きさをよくよく考えながら読む。
高貴の婦人が智慧を持たないことが当然だった時代の話なのである。

作中、滋賀津彦の骨身の訪問を受けた後の郎女の夢の情景がいい。
「珠玉」の言葉を連ねて描かれた幻想である。
それを近藤さんは自身の感性で絵に成された。
文字を完全に再現したのではない、深く読み取って絵に成されたのである。
この数ページの表現に会うには実際に<見る>以外に方法はない。
本を開くなり電子版で見るなりしなくてはならない。

マンガの面白いところはマンガだけでしか出来ない表現があることだと思う。
ただしそれは映画は映画の、演劇は演劇の、アニメはアニメの、小説は小説の、と言葉を置き換えてもいい。
そのことを想いながら作品にあたる。

描き込むことのない、必要な線以外を排除した絵。
近藤さんの作品世界がこの『死者の書』を構築し、原作にないシーンを自然な形で加える。
それは即ち後年の家持の姿である。
この家持があることで、作品が近藤さんの言う「鑑賞の手引き」となっているように思う。
読者は家持の言動から様々なことを読み取り、それでいくつか不明な点への理解が進む。

マンガは全ての「原文」を完全に再現するわけではない。
たとえば藤原仲麻呂恵美押勝と家持との対話、あれも本当はもっと長く、恵美押勝に滲むある種の屈託をも描いてはいるが、近藤さんはその文章を2人の表情で読み取らせるように描く。
原作の恵美押勝の
「 早く、躑躅の照る時分になってくれぬかなあ。一年中で、この庭の一番よい時が、待ちどおしいぞ。
 大師藤原恵美押勝朝臣の声は、若々しい、純な欲望の外、何の響きもまじえて居なかった。 」

このシーンでは躑躅の群れの絵が2人の対話の最後にきて、体言止めとでもいうような形を見せる。
更にいえばこのコマでの躑躅の背景は闇である。
二人の小宴がこの時間まで続いていたことを感じさせる一方で、そこにいまだ咲く時期でない躑躅の外線が描かれていることに目を瞠らされる。
このコマで躑躅への渇望が読者にも沁みてくる。
マンガによる表現の豊かさがここにある。

やがて二人の対話から歳月がたち、ページも残り少しになったときに「その後の家持」が登場する。
ここで恵美押勝の乱が終わり、南家の郎女の消息がその後も知れずにいることをも読者は知らされる。

次のページで原作のラストシーンが現れ、感嘆し絵に魂を奪われる人々と、彼女らを残してそっと立ち去る姫の姿がある。
「姫はどうなったのだろう」と思うヒトのために先の挿話が有益になり、物語の終わり・余韻を味わうヒトのためにこの順が活きる。
こうしたところに読者への親切心があり、構成力の高さを感じる。

説明的ではなく、物語の流れを読み取れるように作られたマンガ。
この作品が近藤さんの手によって生まれたことは本当に良かった。

わたしは最初に原作の(現行の)『死者の書』を読み、それから映画を観、そしてこのマンガを読んだ。
今から『死者の書』を知ろうとする人にわたしはまず近藤さんのマンガを勧めたい。
上下巻を深く味わってから、小説を読み、そして次に映画を観てもらいたいと思う。
川本喜八郎の映像作品の素晴らしさを更に堪能するためにも原作を知っていてもらいたいし、読みにくいと思われる原作を味わうためにも、近藤さんの作品で物語を理解することが必要だと思う。
とはいえ、映像もマンガも小説もそれぞれ独立して味わえれば、それはそれで素晴らしいと思う。
『死者の書』ファンとしてわたしはこの三つの作品を深く愛している。
一人でも多くの人がこの素晴らしい作品に惹かれれば、折口ファンとして・川本ファンとして・近藤ファンとして、とても嬉しい。

なお映画『死者の書』については十年前に挙げた感想がある。
こちら
この感想を今も公式サイトが紹介してくださっているのは本当にありがたいことだ。
イメージ (12)

イメージ (13)

イメージ (14)

展覧会は10/10まで。




関連記事
スポンサーサイト
最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
全ての記事を表示する

全ての記事を表示する

フリーエリア