美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 **自宅でログイン出来ないので、現在「遊行七恵、道を尋ねて何かに出会う」で感想を挙げています。

浦上玉堂と春琴・秋琴 父子の芸術展

浦上玉堂と春琴・秋琴 父子の芸術展を千葉市美術館でみた。
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以前に出光美術館で玉堂と春琴の展示を見てはいたが、本当のところは全くわかっていなかった。
当時、こんなことを書いている。
そう、なんにもわかっていないのだ。
あれから多少の歳月が流れ、少しは「文人画」というもの、文人であろうとする男性の気持ちというものもわかりかけているような気がする。
展覧会の惹句は「文人として生きる」である。
そもそも「文人」とは何か。
そのことについてもこの十年の間に知ることが多くなった。
絵を描きながらもそれを表技にせず詩文を書くことを第一にする。
・・・(ええかっこしいヤナ)などと思ってはいけない。

ところで玉堂は50歳の時に「脱藩」し、息子等をつれて諸国放浪に出た。
16歳の長男・春琴、10歳の次男・秋琴である。
一般的に「脱藩」といえばなんとなく罪を思わせるのではないか。
わたしなどは「えっ・・・」と絶句するのだが、今回の展覧会で初めてきちんと手続きを踏んでの「脱藩」ということを知った。
なにしろこれまで知る「脱藩」といえば夜陰にまぎれて国境越えとかそんなのばかりなので、玉堂は言えば「自己都合による退社」で、夜逃げではないのは初めて知った。
というか、こういうのも「脱藩」というのか。
しかもびっくりしたのは玉堂がかなりの名家の出で、紀氏の後裔だというだけでなく、数代前には藩主と血縁関係まで出来ていたり、本人も担当重役だと知って、本当に「えーっ」になった。
わたしの無知からの驚きだが、それにしてもびっくりした。
玉堂の過激な(と言っていいと思う)絵を目の当たりにしつつ、まだ人物像が揺らめいて困っている。

七絃の琴と筆を持って岡山を出て、江戸、上方をはじめ諸国遍歴をする玉堂。
ただし次男の秋琴は脱藩後の早いうちに会津藩に就職した。
松平家の会津藩か、と思って年表を見るうちに「・・・幕末から明治に生きた人」だと気づき、あっとなった。
いちばん激動の時代の会津藩にいて、晩年は岡山に帰るにしても、会津の最後をみとり、明治の世にもその地で働いた人だったのだ。
うーむ、これにも驚いた。
「雅楽方頭取」に任ぜられ、明治の頃には副知事くらいの地位にいたのだ。
すごいなあ。

さて経歴はおいて、作品をみる。
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まずは父・玉堂から。

山水画がどれもこれも「ここには行きたくないな」な場所ばかりだった。
絵の良さとかそんなものはわたしにはわからないので、風景画は「行きたいか・そうでないか」を判断基準にしてしまう。
だから広重、巴水、吉田博、池田遙邨の風景は訪ねたいが、ターナー、ロイスダール、それから東アジアの山水画はニガテなのだ。

玉堂の山水図がずらりと並ぶのを見る。
行きたい場所ではないが、将に壮観だとしか言いようがない、と思う。
時代の流れもヒトの嗜好も顧みず、自らの心に沿う絵の世界で遊ぶ。
個別に作品をどうこう言えるほどわたしがこの世界に溺れられるわけもないが、ただ、その凄さというものだけは強く伝わってくる。

描いたものを集めて綴じたものをみる。アソートものというべき内容で、なるほど好きなものを好きなように描くだけ描いて、それを集めている。
手に取って眺めは出来ないが、こうした小さい作品はまだ手が届きそうな気がする。
カネの話ではなく、心がその世界へ入るための扉は開かれているということだ。

それにしても玉堂は実に多くの地を旅している。飛騨の山中で描いたものもある。
行く先々で観た物が昇華され、架空の風景画になる。写生したものをそのまま作品にはしない。
わたしは山水画は基本的にファンタジーだと思っている。
ありえそうなタイトルをつけてはいるが決してそれは「真景」ではない。
写生は円山派に任せておけ、と思っていたかどうかは知らないが、少なくとも山水画は観念のものだ。たとえ手本があろうとも。
だから展示に種本もあるが、それは玉堂が何を好んだか・何を求めたかも多少なりとも推測できる素材になる。

玉堂作品を愛する文化人も少なくない。
谷上徹三も扇面型の絵をもっていた。哲学者の彼がどのようにその絵を愛したかは知らない。また川端康成も国宝となった作品を所有している。
彼らは美の信徒であり、その証として玉堂の作品を愛した。
ここでわたしがとても気になるのは、谷川はその絵を息子に見せたか・息子はその絵を見て愛したかどうか、ということになる。
谷川徹三の息子は詩人の谷川俊太郎である。
徹三の思索と俊太郎の詩作に玉堂は関わったろうか。

大きな軸物が5点並ぶ。まるで連作の様だがそうかどうかは知らない。所有先も別々である。しかしこの「セット」は壮観だった。
人のいない遠くの山脈を旅する心持になる。

晩年の玉堂は京都に居を構えた春琴の家に同居する。春琴は33歳頃から父と暮らしたが、文人暮らしではなく職業画家として、四条円山派の盛んな地で人気を博して生涯を終えた。
なにも四条円山派だけが絵ではなかったのだ。あれもあればこれもある、ということで愛されたのはめでたい。

浦上父子・頼山陽とその父・春水らが東山の第一楼で宴会をした。
文化十年の事である。この料亭は30年ほど前には応挙らが楽しく過ごしたところではなかろうかと思っている。
応挙に「東山三絶図」というのがあり、その賛には第一楼とあるからだ。
(そんなことを言いだしたらあれにもここにもとなるが)
そしてその楽しい様子を春琴が描いている。
まったりのんびりした可愛い絵だ。
平安第一楼会集図 みんなのたのた。楽しそうな様子。
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玉堂は琴を弾いている。
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このイメージが鮮烈なのだろう、と思う。

春琴の絵を見る。
これまでイメージ的に矯激なオヤジと違い温厚な倅、という感じがあった。
その絵も和やかなものが多い。
だからか勝手にピョートルとアレクセイの父子を想像したりしたが、実際にはこの父子は仲良しさんだった。

唐子遊図衝立 盥周りで楽しく遊ぶちびっこたち。可愛い。
文化9年の作だから結婚の翌年の作品。
文化年間は浮世絵も華やかだし、上方もとてもにぎわった。
その最中の頃に描かれた優しい絵。

花卉図巻は絖に描かれていた。絖に描かれた絵とは素敵だ。とても綺麗。

養老観瀑図 これも楽しそうなツアーのたまもの。菊水という銘柄の酒を造るとこにいたそうだ。笛や笙で遊ぶ。

春琴は名古屋出身の竹洞、梅逸らと好敵手だったそうで、なるほどと思った。
梅逸は特に好きな絵師なので、彼らと競ったというのもいい話だ。
だからか春琴の絵は優しい花鳥画が多いのか。

頼山陽の賛の入った大きな絵もあるし、梅逸らとの合作もある。
いい交流があったのを感じる。

名華鳥蟲図 雀、黄蝶、キスゲ、アジサイ、スイセンなどの描かれた優しい絵がいい。
四時草花図 とても品のいい絵。華美に行かないところも好ましい。
墨竹図 さらさらと描く。

こうした作品が連なると、こちらの気持ちもとても和む。

特に好ましいのは野菜、魚介類を描いたシリーズもの。
海の幸、川の幸、山の幸。レンコン、ザクロ、ナス、クワイ、ユリネ。
カニ、カレイ、タイ、シマダイ。
無限に続くようでとても楽しい。

春琴は貫名海屋とも仲良く、京の名士の一人として活きた。
父の没後も京の人としてよい絵を描き続けた。

柳下小宴図 三条の辺りの鴨川べりで遊ぶ図。ちょんまげさんがご機嫌な様子である。
二条柳馬場あたりの住人なので近い近い。

たまには嵐山にも行き春秋を描き、富士山も描く。
玉堂富貴図といっためでたいのもある。
白薔薇、牡丹、南天、鳥兜、水仙といった花々が機嫌よく咲く。
リアルな虫の絵もあれば、秋の柘榴の絵もある。

面白いのは瓶花図。まさかの饕餮文様だった。白椿などがいけられているがびっくりしたなあ。饕餮文の瓶は殷代のではなく、清のレトロブームで作られたものがこっちに来た、という感じがある。他に仏手柑も転がる。

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最後に秋琴の絵が現れた。
このヒトは会津藩に雅楽方頭取として長く働いたが、だからか音曲の資料がいくつも出ていた。
絵も少なからずあるようだ。
中でも気に入ったのはこちら。
四季山水図 雪の日の山の中、人が小舟にいる。情緒のある作品。

明治になっても絵がある。
山水図(散歩多勝歩) 明治3年 86歳の作品でこの頃は岡山に帰っていたか。
のんびりしたよい絵だった。

わたしの中で、浦上一家への意識が相当変わった展覧会だった。
見てよかった。


常設展では別な父子の絵を集めていた。
北斎と応為、狩野家、長谷川雪旦と雪堤、岡田米山人と半江、渡邊崋山と小華、鈴木其一と守一たち。
こちらだけでもいい企画展になる。
ただ、浦上一家の熱にヤラレテ時間を取られ過ぎた。

江戸絵画のよいのを見るのは本当に楽しい。
浦上玉堂の神髄はわたしにはまた理解できないが、それでもなにか不思議な熱に巻かれたのは確かだった。

いいものをみた。12/18まで。
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