美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 **自宅でログイン出来ないので、現在「遊行七恵、道を尋ねて何かに出会う」で感想を挙げています。

文して恋しく懐かしき君に ―鴎外、『即興詩人』の10年―

既に終了はしたが、心に残る展覧会の感想をここに挙げたい。
森鴎外記念館「文して恋しく懐かしき君に ―鴎外、『即興詩人』の10年―」展である。
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現在は既に鴎外の親友を対象にした「賀古鶴所という男/一切秘密無ク交際シタル友」展が開催中。

「即興詩人」はアンデルセンの小説であり、彼の名を有名にした。
イタリアが舞台であり、様々な出来事がおこる。
哀しい恋もあれば熱い戯れもあるが、それらはアンデルセンの原文で知るのではなく、森鴎外の豊かな言葉で綴られた翻訳文から知ったことなのである。

鴎外は「即興詩人」翻訳について次のように記している。
(以下、引用文は全て青空文庫の「即興詩人」から。なお読みやすいように手を加えてもいる)
「 初版例言
一、即興詩人はデンマルクの HANSハンス CHRISTIANクリスチアン ANDERSENアンデルセン(1805―1875)の作にして、原本の初板は千八百三十四年に世に公にせられぬ。
二、此譯は明治二十五年九月十日稿を起し、三十四年一月十五日完成す。殆ど九星霜を經たり。然れども軍職の身に在るを以て、稿を屬するは、大抵夜間、若くは大祭日日曜日にして家に在り客に接せざる際に於いてす。予は既に、歳月の久しき、嗜好の屡※(二の字点、1-2-22)しばしば變じ、文致の畫一なり難きを憾み、又筆を擱おくことの頻にして、興に乘じて揮瀉すること能はざるを惜みたりき。世或は予其職を曠むなしくして、縱ほしいまゝに述作に耽ると謂ふ。寃ゑんも亦甚しきかな。
三、文中加特力(カトリツク)教の語多し。印刷成れる後、我國公教會の定譯あるを知りぬ。而れども遂に改刪(かいさん)すること能はず。
四、此書は印するに四號活字を以てせり。予の母の、年老い目力衰へて、毎つねに予の著作を讀むことを嗜めるは、此書に字形の大なるを選みし所以の一なり。夫れ字形は大なり。然れども紙面殆ど餘白を留めず、段落猶且連續して書し、以て紙數をして太加はらざらしむることを得たり。
  明治三十五年七月七日下志津陣營に於いて 」


ここでわたしの思い出話をつけくわえると、わたしが「即興詩人」を知ったのは小学生の頃だが、当時はこの本を読む機会もなく、また読解力もなかった。
アンデルセンは既に読み始めていたが、それは童話であり、高橋健二の丁寧な翻訳で読んだのだった。
そしてこの「即興詩人」はアンデルセンの名を有名にしたが、彼を不朽の大作家たらしめたのは童話だという話がある。
ただ、当時のわたしはそのことを知らず、断片だけ知った鴎外の古雅な文体を想い、いつか読んでみたいと思うばかりであった。
実際に通読するのは随分後年のことになったが。

展覧会のねらいについては以下の通りにある。
「展覧会では、『即興詩人』の連載開始から単行本発行までの10年間(明治25年~35年)に着目します。医学界・文学界で論争を展開する活力みなぎる時期から、小倉赴任など待機の時代を経て、変化・成長する鴎外を『即興詩人』の連載発表とともに辿ります。
主人公アントニオと歌姫アヌンチャタとの悲恋を軸とした物語には、鴎外の青春が詰め込まれているといわれます。鴎外にとって『即興詩人』の翻訳作業は、半生のロマンを閉じ込め、新たな自分を探す旅だったのかもしれません。
旅する画家として知られる安野光雅の『絵本 即興詩人』とともに、青春に想いを馳せる鴎外の心の旅をご覧ください。」


ということで、資料もその時代ごとに、そして安野光雅さんの「繪本 即興詩人」の原画も展開に準じて並んでいた。
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第一章 旅のはじまり ―観潮楼から日清戦争前夜まで

・「わが最初の境界」しがらみ草紙 明治25年11月 ~「みたち」しがらみ草紙 明治26年11月
・「学校、えせ詩人、露肆」しがらみ草紙 明治26年12月 ~「歌女」しがらみ草紙 明治27年8月まで
物語のまだ始まりであり、動き始めたまで。

掲載誌のしがらみ草紙が展示されていた。
それから同時代の早稲田文学、歌舞伎新報、文学界、三田文学、国民之友などの雑誌がある。また、鴎外はこの時期陸軍の軍医なのでそんな資料もあった。
当時の鴎外と交際のある人々の書簡もここで紹介されている。
岡倉天心、近衛篤麿、井上円了などなど。

わたしが最初に知ったのは「隧道、ちご」のあたりで、乱歩が「孤島の鬼」に引用していたからだ。小学生の頃に高階良子が「孤島の鬼」を元にしたマンガを描き、それから原作を読んだのだが、平明な文章の中に鴎外の文語体の美麗な文が入り込んでいることで、いよいよドキドキしたものだ。
尤も「孤島の鬼」をどこまで本当に理解していたかは別として。

ところで街中の賑やかな市場の様子を活写する中で「肉鬻ぐ(ひさぐ)男」というのがあり、これはもちろんお肉屋さんのことなのだが、少し大きくなって本格的に読み始めたとき、うっかり別な意味で捉えてしまい、「きゃっ♪」と喜んだことがある。
すぐそれがただの勘違いだとは知れたが、今もその文字を見て「きゃっ♪」なのは変わりない。←フジョシ。
先に鴎外の「ヰタ・セクスアリス」を読んでいたのと、生まれついて妄想が先走る性質だからだろう。

安野さんの絵を見る。
以前に神奈川近代文学館で鴎外と安野さんの展覧会を二度ばかり見ている。
そのことを思う。
・2009年「森鴎外 近代の扉を開く」
当時の感想はこちら

・2011年「安野光雅 アンデルセンと旅して」
当時の感想はこちら

スペイン階段 ああ、ここはどうしても真っ先に「ローマの休日」を想うのだけど(実際わたしも友人とジェラートを食べた)、そう、ここもまた「即興詩人」の舞台なのだ。
1725年に完成。鴎外の描写はそれよりまだ百五十年ほどいにしえのような感興を呼び起こす。
原作が刊行されたのは1834年。アンデルセンの原文を読めないわたしにはやはり鴎外の「即興詩人」こそが原作となっている。

安野さんは淡彩で淡々と描く。
ポポロ広場、謝肉祭の競馬などの絵も物語の情をあえて排して、その様子・状況をしかし詩情豊かに描く。
悲劇も喜劇も同じ大きさで描くことで、自然と人工の営みとを目の当たりにする。
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第二章 旅の中断と再開 ―日清戦争帰国後から小倉赴任まで
ここではアヌンチャタへの熱情のためにアントニオがベルナルドオと仲違いし、出奔する状況からヴェスヴィオ火山へ行く辺りまでが中心となっている。

・「をかしき楽劇」めさまし草 明治30年2月~「大澤、地中海、忙しき旅人」めさまじ草 明治31年5月
・「一故人」めさまし草 明治31年7月~「噴火山」めさまし草 明治31年11月

佐々木信綱、尾崎紅葉らの書簡がある。
自筆原稿で「携帯糧食審査に関する第一報告」というのがあったが、中身は知らないものの、わたしは例の脚気を思い出してたしまったなあ。

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第二章に現れる安野さんの絵はやはり淡々としている。
ボルゲーゼ美術館 6年ほど前にここのコレクションが日本に来たことを忘れない。当時の感想はこちら
主人公アントニオのパトロンはボルゲエゼ公爵だった。

ローマは不滅、美しきナポリ
どちらも古代から続く地。安野さんの見たその地はまた欧州大陸の人々の憧れの地でもあった。若者のゆく旅、グランド・ツアーのことを想った。
「君よ知るや南の国」もまた。

第三章 旅の終わり ―小倉での生活、そして帰京
鷗外の九年余にわたる「即興詩人」の翻訳がいよいよ終わりを告げると同時に、生活の一大転換期に差し掛かった。
彼ももう旅の終わりを実感する年頃に差し掛かっていた。
人生の円熟期に入ろうとしていたのだ。

・「嚢家」めさまし草 明治32年9月~ 「なきあと」めさまし草 明治33年8月
この嚢家(のうか)とは賭場、つまり博打の場のこと。鷗外は(博奕場ばくえきぢやう)と記していた。
・「未練」めさまし草 明治33年8月~ 「琅玕洞」めさまし草 明治34年2月

1834年春、アントニオは妻子を連れてカプリ島へ行き、そこで物語は叙情豊かに終わる。ある種の諦念とも淋しさともつかぬ感情が湧きだすのを感じる。
それはやはり鷗外の訳文の力なのだとも思う。

明治35年に刊行された「即興詩人」初版、続く第二版、第三版と優美な本が並ぶ。
そして上田敏から息子・於莵への書簡などもある。
20世紀になったのだ。

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安野さんの絵はナポリからチヴォリ、ヴェネツィア、カプリ島へと移る。
アントニオの旅を絵筆で追う。
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人物がいても個人特定はできない。そしてそのことが実はその作品世界をより豊かにしている要素なのだった。

鷗外の古雅な文章と安野さんの絵とがわたしの中に浸透する。
わたしは青空文庫のそれを拾い読みしながらこの感想を書いている。
そして鷗外の仕事を展覧会で追う。
とても有意義な状況を楽しんだのだ。
わたしもまたイタリーを旅した心持がある。

最後に常設で可愛いものを見つけた。
坪井正五郎から鷗外の弟・潤三郎へのはがきに描かれた蛙。
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余韻を長く楽しんでしまい、こうして会期終了後に感想を挙げることになってしまった。
よい展覧会だった。
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