美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 **なお現在コメント欄を閉鎖中です。

ポール・デルヴォー版画展 

姫路市立美術館所蔵のポール・デルヴォーの版画をまとめた展覧会が三か所で巡回展示されている。
わたしは市川市芳澤ガーデンギャラリーでみた。
今は田原市博物館に行っている。
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黒版のチラシもいい。
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デルヴォーとは不思議と縁が薄い。
最初に彼の絵を意識したのはもう20年以上前のことになる。
澁澤の著書で知ったと思うのだが、それで惹かれたのになかなか実物に会う機会がないまま歳月だけが行き過ぎる。
ようやく作品を見たのは93年の姫路市美での展覧会だったが、そのとき、本当に待ち焦がれていた。
これはその前に酷い話があるからの渇望なのだった。

デルヴォーの絵を見たい見たいと切望していたある日、東京へ出向いた。
当時ネットは今のように発達しておらず、展覧会情報は雑誌・新聞のほかはじかに問い合わせるくらいが関の山だった。
だから圧倒的に情報が少ない。
そして新幹線の改札をくぐった途端、ここで開催中のデルヴォー展のポスターを見た、のだ。
あまりのショックに泣き出してしまったよ…

だからあの後に見たときは本当に嬉しかった。
その姫路市立美術館。そこの所蔵品からデルヴォーの版画をじっくり見ていよう。
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リトグラフとエッチングが主に並ぶ。
1950年以降の、既にスタイルが決定してからの作品がある。

・「ささやき」と女性像
二人の女友だち 1966 このタイトルだけでどのような状況下にあるかを推して知るべきで、その予測にたがわぬ様子が描かれていた。
クールベ、ロートレックら先人の「二人の女友だち」同様、仲良くする二人が描かれている。服の上から相手の胸を撫で、きわめて親密な関係をみせる絵。
描くのは女性同士の密な愉しみであっても、画家本人は実はとても保守的だったそう。
ではどのような眼でこうした状況を視ていたのか、その辺りの心持が知りたい。

女たちの濃やかな情愛は同性同士の間にのみ発生する。
その前提で絵を見てゆくと、いずれもとてもナマナマしい魅力を感じる。

みんな髪よりもずっと濃い色に覆われた下腹部をもち、見開かれた大きな目を据える。
ぱつんぱつんに切った前髪の娘は目を閉じている。二つに裂けた眉の娘もいる。
手に持つ扇以外なんら繊維と無縁に立つ女もいれば、鏡の中ではドレスを着てうっとり目を閉じる女もいる。

口論するのも女同士。「イブ」もまた女たち。女から女へ手渡されるりんご。
しかし「青いアザレア」では女の前に少年がいる。
少年もまた女にとっては愉しい存在になりうる。

捕らわれ人 1973 寄り添って座る二人の少女。ローマの兵士風な男が外に立ち、二人をどこへも行かせぬようにする。

セイレン1969 沈黙し、目を閉じて花をつむ女。

フリュネ 1969 古代ギリシャの名高い高級娼婦の名がついてはいるが、そこにいる花帽子の女がそれなのかどうかは知らない。
ただ、別に特定女性を描こうとしたのではなく、その名で呼ばれた名高い高級娼婦を思わせる女性を描いただけなのかもしれない。

王冠 1981 鏡に映る顔をみているのだろうか。なにかしら行為がそこにともなっている、と思いたくなるのだが、デルヴォーの描く女性たちは深い沈黙の中にあり、答えを決して出してはくれない。

ささやき 1981 絹織物の原画 サテンということでキラキラしている。
集まった裸婦たちは帽子をかぶるものが大半だった。
立ち位置を変えるまでもなく視点を変える、そんな些細な動きだけでも目の前の情景が変化する。薄い煌めきこそがささやきだと気づき、徹底して視る側にいるだけのわたしもまた、そのささやきにひっそり加わった。

オルフェウス 1981 二人の裸婦がいる。一人は俯き、一人はその向かいに座りながらも顔をそむけている。女同士のオルフェウスとエウリディケ。
緊迫感はない。ないが、どこか倦怠感と絶望感が漂う。

・デルヴォーの連作
クロード・スパーク「鏡の国」のための連作「最後の美しい日々」8点組 1978-1979頃
デルヴォーとこのクロード・スパークとはかつては友人だった。
1948年のクリスマスイブの日、50歳のデルヴォーは恋人のタムと共にスパークのもとへ逃げて来たそうだ。タムも既に48歳になっていた。
駆け落ちする以外に方法を持たなかった。

スパークの「最後の美しい日々」を簡単に記すと、仲の良い夫婦がいたがある日妻が死んでしまい、残された夫は秘かに妻を剥製にして家に残す。棺に遺体は入らないまま埋葬される。
夫にとって幸せな日々がくる。
しかし日々夫は老いてゆくが、剥製として再生された妻はいよいよ若く美しくなる。
夫はとうとうそのことに耐えられなくなり、ついに…

妻を剥製にする男の話と言えば実話がアルゼンチンにある。
ミヤモト・カツサブロウ博士という日系の医者が妻をミイラにし、数十年間ベッド寝かせていたという。
この話は澁澤龍彦「玩物草紙」にある。
男は妻を若く美しく置こうとするが、女は違う。
死んだ男をそのまま手元に置き、骨にした話もいくつかある。
「エミリーに花束を」などはそうだ。

作品は全てエッチングに手彩色である。
表紙・最後の美しい日々 室内の情景が描かれている。暖炉には時計と鏡があり、壁紙は薄い群青色で小さな文様が入る。楕円形の形に切り取られたような肖像写真の額が飾られている。赤いテーブルクロスを敷いた丸いテーブルには二客の椅子、皿とコップと便があり、誰かの白い手がそこへ伸びている。

・死んだ女 長年連れ添った愛妻が死の床についている。灰青の壁紙、扇子や絵などが飾られていて、花柄のベルベットのカーテンのようなものもある。部屋には蝋燭のような灯りがある。白く豊かな妻をなす術もなく呆然と見おろす夫。
妻のベッドに両手をつき、ただじっとしている。

・実験室 骸骨などがある部屋。天井はガラス張りである。隣のアパルトマンから見えるのではないかと心配になる。死んだ妻は復活し、薄青に黒い文様のドレスを着、胸元にはリボンがついている。
そばにいる剥製師はヴェルヌの「地底旅行」の登場人物・リーデンブロック教授をモデルにしているそうだ。自身の興味あるもの以外には何も目を向けないという男。

・パレ・ロワイヤル 待つ夫。

・バルコニー 剥製の裸婦が窓辺にいる。表通りでは彼女の葬列が通り過ぎてゆく。
それを見おろす剥製の裸婦。

・サロンのマリー 白髪も皺もなくなり、若返り続ける妻マリー。夫は驚嘆する。

・女とビュスティエ 若い女の付ける下着(ビュスティエ)を身に着ける剥製のマリー。若く綺麗な女。そのマリーに耐え切れなくなる老いた夫。

結局夫は妻に二度目の死を強いる。バラバラ殺人という形で。

「成長しない」=「老化しない」存在への苛立ちは手塚治虫、杉浦日向子も描いている。
天馬博士は死んだ息子の代わりに作ったアトムが成長しないことに苛立ち彼を拒絶し、サーカスに売り飛ばした。
「百物語」で杉浦日向子は、美人画を愛でる男がその絵に年々加筆させていることを示した。
「私だけが老いる」と男はいい、絵の女も老けさせたのだ。

剥製も老けさせればこんな悲劇はなかったかもしれない。
しかし、それではデルヴォーの絵である必然性はなくなる、か。

・モチーフと心象風景
駅、電車、庭…そこに現れる裸婦たち。
五人の裸婦たちがゴシック空間を行きあう「円天井」、もう一つの「海は近い」…
棕櫚のある室内、くつろぎつつも視線の交わらない二人の女…

相客がいなかったからか、不思議な感覚がある。
わたし一人がデルヴォー描く女たちの集まる空間を一人逍遥したせいでか、彼女たちの仲間に入れてもらった気がした。
ただ、わたしには彼女たちのような官能性が不足しているためか、結局絵の中には入りこめず、ただ会場内をぐるぐる歩き回るだけになったのだが。

姫路市立美術館の素晴らしいコレクションにときめき、芳澤ガーデンギャラリーのその庭園にデルヴォーの女たちの面影をもとめた。
いい展覧会だった。


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