美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

悉有仏性―全てのものに仏性がある―「磨滅の美。」佐藤辰美コレクション

「悉有仏性(しつうぶっしょう)―全てのものに仏性がある―佐藤辰美コレクション」展という展覧会が御影の香雪美術館で始まっている。
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わたしはこの稀代のコレクター・佐藤辰美さんという方を知らないでいる。
行ったその日は丁度ギャラリートークがあり、少しだけ聞いた。
それによると、氏は現代美術収集家として名高い一方、古美術、中国美術、民族美術もコレクションされ、またレコード、CD、ワインと実に幅広く興味あるものを集めておられるそうだ。
「アメリカの美術雑誌『ART news』が2014年に発表した世界のトップ・コレクター200人にも入りました」とのことである。
氏は殊に自らを「磨滅ジャンキー」と自称されている。これはレコードコレクターを「ビニールジャンキー」ということからの転用だそう。

氏の仏教美術コレクションには大きな特徴があった。
それは「磨滅の美」である。
今回のチラシを見て、作品が一部破損しているものがあるなとは思った。
それにこの副題である。
元の形を全うせずとも、伝世したのは尊い。
そうした遺宝をコレクションしてはるのか、となんとなく納得した。

佐藤氏は所蔵品は自宅に飾ることを旨とされているそうだ。
隠していてはないも同然、ということなのか、そうした愛で方・鑑賞もいいなと思った。

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さて一階展示室に入った。
ガラスケースの向こうにずらりと仏像が並んでいるが、それがいずれもどこかしら欠損した様相をみせていた。
古い仏像はよほど大事にしても崩れることは多い。
むしろ作られた当時の姿を保持している方が少ないのではないか。
しかしそれにしても激しい。
「磨滅の美」とはよく言うたもので、なるほどこの美に中毒するというのはわからなくもない。
ある種の離れがたい頽廃美に囚われたのだ。
古仏の曰く言い難い魅力、その中には確実にそうした一面があるとわたしは思う。

今東光「春泥尼抄」にこんな情景がある。
尼衆学林在学中の主人公・春泥とご附弟さんの春鏡がカネモチの大学生らと知り合う。
楽しいひと時を過ごし、二人の少女尼僧は学林へ帰る。
彼女らを見送った大学生グループはいずれも大学で美学を専攻するだけに、彼女らの美貌に対してある種の頽廃美を感じる。
尤も彼らは全員卒業後はそれぞれ親の会社や一流企業に勤務することが決まっており、道楽として美学を学んでいるのだ。
(後年、彼らはラブアフェアにいそしむことになる)

わたしはこの欠損した仏像が列ぶのを見ながら、そのことを思い起こしていた。

如来立像、菩薩立像、地蔵菩薩立像、不動明王立像、天王立像…
いずれも奈良時代から平安末期までの木造仏たちである。
お地蔵さんと不動明王はわかるが、あとは所属はわかっても<誰>なのかがわからない。

漆箔を全身にまとう如来立像は朱色を超えて、焚きすぎた風呂釜のような鉄色を見せている。
全身を凄まじいばかりの虫食いに覆われた菩薩立像は間近で見ると瞼も口元も磨滅しているが、離れて眺めると不思議に端正な面立ちが見えてくる。
両手共に何かの印を結んでいるのか・または何か摘まんでいたものを失くした形なのか、彩色された菩薩は扁平の足裏を見せている。
皆、コレクターの自室にいると言う。

誰が書いたのか思い出せないが、ある随筆で「ミロのヴィーナスに両手があれば、今ほどには魅力はない」という意味のことが書かれていた。
つまり手があれば何らかの動作をしていて、それが花を摘んでいようが水瓶を持っていようが衣裳を掴んでいようが、或いは誰かの手を引いていようが、動きが固定されるというのだ。
そのときは納得もした。「欠損」こそが美の根源であり、想像が広がる力となったのも理解した。

しかし今、激しい欠損をみせる像を見て、わたしは美よりも、薄い畏れあるいは怖れを感じている。

胴体だけが残る天王立像は不思議にバックルの獅子の鋭い歯並びだけは欠けることなく揃っていた。
この像は手足を失い、背も失くし、内刳りの一木造がはっきりと見えてしまっていた。
まるでカシラを取り外し、ド串だけみえる文楽人形の大きいものにも見えた。

釈迦誕生仏立像 奈良時代 鍍金鋳造銅製 「天上天下唯我独尊」と挙げた腕が失われていた。

欠損ばかりではなく、美しい古びを見せる像もある。
鎌倉時代の狛犬などはとても力強い。

能面、行道面、菩薩面、これらはもう本当に恐ろしいようだった。なまじ綺麗な輪郭線が残るというのは恐ろしさを増すものだ。
鼻も目もなくなり冠だけがいきていたりすると、それはもう…

仏画を見る。
愛染明王、降三世明王といった怖い顔立ちのものから、ぽってりと愛らしさの残る金剛王菩薩像まである。
後期には九相図も出るそうだ。

お経もいくつか。断簡ばかりである。紺紙金銀字は千年の時を生きる。

鎌倉時代の絵因果経もある。可愛い。外にいる仏を拝む誰か。

二階では本当の意味での「磨滅の美」を堪能することになる。
像の断片がとても多いのだ。

天衣、衣、髻、手…
衣の切れ端(木造)はまだいい。
天部の髻だけがぽつんと置かれているのを見たとき、上田秋成「雨月物語」の「吉備津の釜」の恐ろしい結末を思い出した。
身の毛もよだつラストシーンである。
「腥々しき血潅ぎ流れて地に伝ふ されど屍も骨も見えず 月明かりにみれば軒の端にものあり ともしびを捧げて照らし見るに 男の髪の髻ばかりかかりて 外には露ばかりのものもなし」
こわい…

手首から先だけあるのも怖い。これに関しては小出楢重がうまい文章を書いている。
指一本というのも反社のヒトビトのケジメを思い出させるしなあ。
この手だけの断片は旧武藤山治コレクション。

木造仏の断片も凄まじい。彩色が残り花柄が見えるものもあり、この断片から在りし日の麗姿を想像したりもする。
台座の蓮弁もいくつかあり、当時最先端の装飾技術もそこに見出せる。

チラシで目立つ牡丹文透彫華鬘、これは室町のもので室生寺に現存する華鬘とそっくりらしい。
壊れたから流出したのかどうかは知らないが、室生寺の姉妹だということは間違いなさそうである。

もう一つ、蓮華唐草文家文は江戸時代のもので、こちらは千本釈迦堂に姉妹がいるらしい。リボンなどもついている。

やはり欠損の美、磨滅の美と言うものは頽廃美である。
その凄艶さは恐ろしさと寄り添ったものであるのは確かだ。

明治政府は奈良の寺宝を調査した。廃仏毀釈などという愚行の後だが。
そのときの写真が東博に残っていて、折々に展示されている。
わたしもこれまで何度もみては息を飲んでいるが、ここにある仏像たちもまたあの写真に通じる怖い魅力がある。
壊れた理由が経年劣化であれ、人為的なものであれ、いずれにしてもそれらは佐藤氏のいう「磨滅の美」の範疇にいる。

仏具を見る。こちらは著しい欠損を見せてはいない。

蝶形金具 平安時代 チラシの金色の蝶である。
胴がやや太めの金の蛾。どうしたところに使われていたのかは知らないが、可愛い。蝶番に使われていたようではなさそうだが。

唐草文吊下金具 室町時代 これも蝶形にみえる。可愛い。

奈良時代の三鈷杵がある。形は「憤怒型」と呼ばれるものらしい。ギリシャ神話の海神ポセイドンが持っていそうな武具にみえるもので、なんとなく「憤怒型」というのも納得がゆく。三又の刺す又である。

五鈷杵、舎利容器、そして小さな五輪塔。
これらを佐藤氏はどのように自宅に展示されているのだろう。

緑釉花文手付小瓶 平安時代 首はやや短く、胴に牡丹らしき花が刻まれている。全体は黄緑。そしてその口縁はまるで花の形を思わせるように欠けていた。

蓮華形柄香炉 木製 鎌倉時代 二つあり、どちらも唐招提寺のもの。

四脚円卓 鎌倉時代 小さな円卓でとても可愛らしい。益田鈍翁旧蔵。

あらゆるものに仏性がある、というのには確かに同意するけれど、あまりの凄さに圧倒されてしまった。

前期は6/11まで。
後期は6/13から7/2まで。
十二天図、九相図、夢記断簡、正倉院裂などが出るそうだが、どのような状況のものなのか…
そしてこの佐藤氏のコレクションは続き、7/15から9/3までは「祈りのかたち。」展が開催される。
真夏に見に行こうと思っている。
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