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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

「ヌード NUDE」展、ただただ鑑賞する

2003年には神戸で「ヴィクトリアン・ヌード」展を見たが、それ以来のテートのヌードがきたわけだ。
ただし、前回の世紀末ヌードとは違い、現代までのヌード作品を展示している。
展覧会の概要を記した一文にこんな一節がある。
「現代における身体の解釈をとおして、ヌードをめぐる表現がいかに時代とともに変化し、また芸術表現としてどのような意味をもちうるのか」
ただ単に楽しく鑑賞する展示ではないことを、最初から踏まえておかねばならなかった。
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1 物語とヌード | THE HISTORICAL NUDE 1
とはいえ、やはりこの章にある作品は楽しく鑑賞または干渉(妄想)してもいいようだ。

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 風景の中で頭と腕を上げ、跪く男性ヌード 1794–95年頃  なかなかよろしいではないですか。素敵だ。
…と思ってから、改めて「え、ターナー先生の作品???」とアタマのなかをメールヌードとターナー描く海上の嵐が駆け抜けていった。

ウィリアム・エッティ 寝床に就く妻を下臣ギュゲスに密かに見せるリディア王、カンダウレス 1830年発表  ちょっと調べたらこんな話だった。
古代の王様が自分の年下の友人でもある部下に美人の奥さん自慢をしたくてのぞかせたそうな。奥さん、激怒。後にその部下に「自殺するか王を殺してわたしと共に在るか」と二択を迫り、部下は後者を選択。
「さあ」というキモチで王妃がベッドへ入ろうとしたら、こっそりどころかかなりはっきり姿を見せて部下が見に来てるわけです。若くてハンサムな王様、なんか嬉しそうなようでいて、意外に無表情。年下の部下の方よりずっと若く見えるな。
いけませんなあ、これは。
谷崎「鍵」をちょっと思い出した。

アルフレッド・ステヴァンス ドーチェスター・ハウスのための習作、跪き弓を曲げる少年 1860年頃  おお、力強い。かっこいいわ。

ジョン・エヴァレット・ミレイ ナイト・エラント(遍歴の騎士) 1870年  旅の最中にばったり行き会う。木に縛られた若い裸婦を救う。
アンドロメダやこの名も知らぬ娘さんもそうだが、わざわざ脱がすのは、物語の設定よりやはりまずはヌードありきなんだろうなあ。
アンドロメダの場合は生贄、この娘さんも多分そうだろうけど、別に捕食者にそこまで親切にせんでもよろしいですがな。やはり「描きたい」と観客の「見たい」があるからこうなる。
この絵を模写した下村観山の作品が常設に出ていたそうだが、今回何故か記憶にない。

ハーバート・ドレイパー イカロス哀悼 1898年  随分昔の「ヴィクトリア朝の絵画」展で見て以来。
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この絵はかなり好きなので図録でもよく見ているから、懐かしさよりも「おお、来たか」という感じがある。
とはいえ描かれた情景は悲しみに満ちている。
琥珀色の岩棚がとても印象に残っている。
翼がいっぱいに広がり、黒い青年が横たわる。周囲にいる女たちのうち竪琴を持つ女だけ顔がはっきりと見える。
太陽に焼かれ、落下したイカロス。
日本のオオナムチは焼け石の為に死んだが、女たちの乳と貝の薬で蘇生した。
イカロスは神の作為で死んだので、復活はない。

フレデリック・レイトン プシュケの水浴 1890年  この絵も同じ展覧会で見たのが最初。
優雅なプシュケの裸体。背後に描かれたイオニア柱が額縁にも。
あの展覧会でラファエル前派をはじめ英国絵画が好きになったのだった。
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アンナ・リー・メリット 締め出された愛 1890年  家の扉は固く閉ざされている。少年はクピド。画家は新婚三か月で夫を亡くしたそう。レイトンに勧められて描いたと解説にある。扉前の植物も枯れ死にしかかっているのがせつない。
ウィリアム・ストラング 誘惑 1899年  アダムとイブの楽園追放の原因。左側には蛇と何をしているのかわからない豹がいる。イブは妖しい意志を見せつつアダムにリンゴを勧めようとする。そのアダムの足元にはウサギがいる。何らかのメタファがあるのだろうが、わたしにはわからない。

ローレンス・アルマ=タデマ お気に入りの習慣 1909年  ようやく実物に会えた。
最初にこの絵を見たのは今はなき「アサヒグラフ」で紹介されていたからだった。
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オリエンタルな美。画像だけではわからなかったことが色々とわかってくる。
奥の扉の上には透かしが入り、レリーフもある。素敵な浴場。タイルが特に素晴らしい。
楽しそうな女たち。

2 親密な眼差し | THE PRIVATE NUDE
ここも鑑賞を許される。

エドガー・ドガ 就寝 1880–85年頃  裸で寝る女。中世の庶民は寝間着なしだったが、リアルタイムの女なのでモゴモゴ…

エドガー・ドガ 浴槽の女性 1883年頃  夜間開館のお客だというので、ご褒美にこの絵の絵ハガキをいただいた。とても嬉しい。
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フィリップ・ウィルソン・スティア 座る裸婦̶黒い帽子 1900年頃  ソファに座る。帽子には花。腿はなかなか発達している。顔は見えない。
佐藤忠良の彫像にもこんな女がいた。

グウェン・ジョン 裸の少女 1909–10年  作者もモデルも女性、仲が悪かったそうだ。
悪意なのかリアル志向なのか、描かれた女の胸が垂れている。

オーギュスト・ルノワール ソファに横たわる裸婦 1915年  さすがルノワールらしい暖色系と青の背景に、真珠の滑らかさを肌に載せた裸婦。
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まあ正直なところ、ほっとする裸体ですわ。
それは多分背景としての物語性がなく、純粋に絵画として鑑賞できるからだと思う。
少しでもそこに物語性があると、それだけでこちらの妄想が沸き立つ。
この裸婦は黙ってこちらを静かに見る。それがいいのかもしれない。

アンリ・マティス 横たわる裸婦 1924年  木炭で描かれた裸婦。顔が案外いいな。

ピエール・ボナール 浴室 1925年  ああ、これはちょっと衝撃をうけた。浴槽内に長々と寝そべる裸婦(妻マルト)のその様子。
下腹部から下半身、足の長さ、水から透けて見える肉体の様子。
想像もしなかった。
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浴室の裸婦 1925年  こちらはバス内だけでなく他の、マットとか別なヒトもいるのがわかる絵。

クリストファー・リチャード・ウィン・ネヴィンソン モンパルナスのアトリエ 1926年  縦長の絵。窓の向こうにモンパルナスの街並みが広がる。その大きな窓の前で裸婦が黒猫を撫でながら立っている。
確かに絵になる情景。

アンリ・マティス 布をまとう裸婦 1936年  この完成に至るまでのプロセスを想う。マティスはプロセスを大事にした人。
裸婦の豊かな胸や腹や腿の線、肉の確かさ、白い布…とてもいい。
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3 モダン・ヌード | THE MODERN NUDE
表現だけでなく、意識の違いをはっきりと感じた。

アンリ・マティス 青の裸婦習作 1899–1900年頃  若い頃なのでやはり古さがある。マティスは年を重ねるほどに新しくなる。

アレクサンダー・アルキペンコ 髪をとかす女性 1915年  モダンすぎてついていけないがかっこいいのは確かだ。

アンリ・マティス 横たわる裸婦 II 1927年  ああ、やはりモダンだ。ステキ。

アルベルト・ジャコメッティ 歩く女性 1932–33–1936年頃 (1966年鋳造)  気のせいか、女に首がないように見えるのですが。

ヘンリー・ムーア 倒れる戦士 1956–57年 (1957–60年頃鋳造) 倒れているのだろうけど、どうも違うポーズに見えて仕方ない。
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パブロ・ピカソ 首飾りをした裸婦 1968年  そういえばピカソのミノタウロスのシリーズが好きだ。
彼のこの頃の裸婦は内臓の末端まで捲れて見えそうなので、たまに困る。
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4 エロティック・ヌード | THE EROTIC NUDE
まさかのターナー先生のエロスケッチには滾りました。
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ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー ベッドに横たわるスイス人の裸の少女とその相手 「スイス人物」スケッチブックより 1802年
  わざわざ「スイス」と言うところに色々妄想してしまった。何故だろう。バルテュス的な背徳感を感じているのだろうか。
これは事後だろうか…

ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー エロティックな人物習作 1805年頃  描かれている数々のシーンにときめく。こっちの方がいいな。

赤い布をまとい横たわる裸婦 「パリ、セーヌとディエップ」スケッチブックより 1821年
寝室:空のベッド 1827年
カーテンのひかれたベッド、性行為中の裸の男女 「色彩研究(1)」スケッチブックより 1834–36年頃
カーテンのひかれたベッド、横たわる裸の女性を見る女性を含むふたりの人物 「色彩研究(1)」スケッチブックより 1834–36年頃
横たわる裸婦 1840年頃
…堪能する。
こういうのをもっと早くにあるのを知ってたら、ターナー先生のファンになっていたのに。

甲斐庄楠音、橋口五葉のスケッチで性交中の様子を延々と描いたものがあるが、演出なしの様子を描くものと、画家の望む体位なり行為なりを描いたものとは全く違うと思う。
石川淳が興味深いことを書いている。
浮世絵の春画について。春画は英泉がいいという話である。
理由は一言 欲情させるためのものだから ということだった。

オーギュスト・ロダン 接吻 1901–4年  ロダンの接吻像のみ撮影可能。
ぱちぱち撮った。ぐるぐる回っていろんな角度から見たり撮ったりしてある種の悲哀に近いものを感じた。
それは像に対してではなく、この像を見ながら欲望を感じない自分に対してだった。
「ああ、キスしてるな」という感想しか湧かないのだ。

しかし、次の展示で状況は変わる。
ホックニーの連作である。
当然ながら男性二人の関係を描いている。
デイヴィッド・ホックニー
古代の魔術師の処方に倣って 「C.P.カヴァフィスの14編の詩」のための挿絵より 1966年
美しく白い花 「C.P.カヴァフィスの14編の詩」のための挿絵より 1966年
彼は質について訊ねる 「C.P.カヴァフィスの14編の詩」のための挿絵より 1966年
古い本の中で 「C.P.カヴァフィスの14編の詩」のための挿絵よ
絶望して 「C.P.カヴァフィスの14編の詩」のための挿絵より 1966年
退屈な村で 「C.P.カヴァフィスの14編の詩」のための挿絵より 1966年
一夜 「C.P.カヴァフィスの14編の詩」のための挿絵より 1966年
煙草屋の飾り窓 「C.P.カヴァフィスの14編の詩」のための挿絵より 1966年
4歳のふたりの男子 「C.P.カヴァフィスの14編の詩」のための挿絵より 1966年

わたしは描かれた絵を、自分の推しカプの様子に脳内変化させてときめいていた。
フジョシの妄想力の一端が発露した感じ。
とても楽しい。申し訳ないが、やめられない。
ホックニー、すまぬ。
ホックニーは学生時代から映画「彼と彼 とっても大きな水しぶき」見たりして好きなんだけど、今のわたしは日々のめりこんでる推しカプが尊すぎて、男性同士の行為を見るとすぐに<彼ら>に変換されてしまうのです、ごめんね。

生涯女の人に走り続けたピカソ先生の晩年のエッチング。
パブロ・ピカソ エッチング:1968年3月24日II (L.6)「347シリーズ」より
「156シリーズ」より 1970年
・・・「最後まで元気」だと聞いていたけれど、作品を見るうち、どうも「・・・先生、枯れてない?」とチラリと思ったり。
この章のタイトルは「エロティック・ヌード」だからそういう作品をチョイスしてるわけだが、どうもなんというか、哀愁を感じたなあ。
肉を寄せてむにっとしてるのはいいが、もうなんというか出来そうにないような・・・
「三つのうち 目も歯もよくて哀れなり」の自嘲とも違うけど・・・
ジェーン・バーキンとセルジュ・ゲンズブール「ジュ・テーム」でゲンズブールが「俺はもうだめだ」とつぶやくのへ「がんばれゲンズブール!!」と思わず声援してしまう、あれに近いかな・・・
ごめんね。

展示作品の内比較的近年のがこちら。
ルイーズ・ブルジョワ 自然の法則 2002  うーん、なんというか、絵としては面白いけれど、出来るのかな、これ。少女と少年のお遊戯に似ている。
シリーズ全編にそんなことを思う。

5 レアリスムとシュルレアリスム | REAL AND SURREAL BODIES
この辺りに来るとヌードの意味と言うことを色々考えてしまう。

ジョルジョ・デ・キリコ 詩人のためらい 1913年   キリコ、このタイトルと絵との関係性ってけっこうあれだな・・・
トルソとバナナの山。そうか、そう(なの)か。

マン・レイはやはりかっこよかった。
無題(ソラリゼーション) 1931年頃  いいよなあ。
メレット・オッペンハイム(ソラリゼーション) 1933年  写真芸術の魅力と言うものをひしひしと感じる。
うお座(女性と彼女の魚) 1938年  しかしこれはあれかサバか?

ハンス・ベルメール 人形 1935年  ああ、ついに現物を目の当たりにした。
写真と現物が並ぶ。緊縛され分割された球形の肉体。モデルやってた奥さんは自殺したというていたな。
わたしはこの球体人形を見ると韓国のある小説を思い出すのです。しかしタイトルは失念してしまった・・・

ポール・デルヴォー 眠るヴィーナス 1944年  デルヴォーいいな、やはりいい。爆撃中にこれか。画家の魂は現実から遠くへ向かう。この静謐。朝は永遠に来ない。
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バルテュス(バルタザール・クロソウスキー・ド・ローラ) 長椅子の上の裸婦 1950年   少女が白のニーハイに赤い靴履くというだけでもときめく人もいるわけで。

6 肉体を捉える筆触 | PAINT AS FLESH
ベーコン、ウィレム・デ・クーニングと言った人々の絵があるがあまりわたしにはわからない。

ルシアン・フロイド 布切れの側に佇む 1988–89年  若くない女の身体。これを見てまた色々と考えるが、それを言葉にはしたくない。
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あ、さっきの人か。なんだろう、やはりニガテだ。絵がではなく、テーマが。描かれたヒトの生涯を追うのがなんだかつらいからだ。
ルイーズ・ブルジョワ カップル 2007年

7 身体の政治性 | BODY POLITICS
わたしにはここでの本来の意図を読む力はない。

バークレー・L・ヘンドリックス ファミリー・ジュールス:NNN (No Naked Niggahs[裸の黒人は存在しない]) 1974年  黒光りする綺麗なメールヌード。
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この制作年からも本当は色々と言うべき言葉があるはずだろうけど、わたしは単純に「ああ、いい身体、素敵」というばかり。
そして「タイルいいな」。
ここまでしか書かない。

ロバート・メイプルソープ リサ・ライオン 1981年   三点のリサ・ライオン。そういえばメイプルソープの展覧会を見たのは大丸梅田でだった。そのすぐ後にラガーフェルトの展覧会も続いたから20年前の大丸梅田はけっこうかっこよかったのだな。

色々考えるべきなんだろう。
しかしそれをあえて排除しながら自分の狭い知見ともいえないものにも蓋をして、ただただ好きな情景だけを好きなように見てきた。
常々わたしの感想は「感想」に過ぎず、レポでもなく、なんの参考にもならないということは知れていたが、こうした意図の下での展示に対しては本当に挙げる言葉がない。
議論も嫌いだからただただ好き勝手なことを書いてゆくばかりだ。


8 儚き身体 | THE VULNERABLE BODY
こちらもわたしは好きなものしか見なかった。

シンディ・シャーマン 無題#97 1982年   本人の肉体か。なんだろう、このまなざしは。
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個人的な趣味嗜好だだもれになってしまったが、そういう楽しみ方をさせてもらったことに反省と感謝の念をこめて、この世界巡回展にお礼を。
6/24まで。
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