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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

高畑勲展に行って その4

高畑勲展もついに閉幕した。
わたしの感想も多分これで完結(予定)。


「ホーホケキョ となりの山田くん」
これを映像化すると聞いた時の衝撃は大きかった。

わたしは作者いしいひさいちの四コマファンだが、アニメの「おじゃマンガ山田くん」は見なかった。
舞台を東京に代え、東淀川大学を東江戸川大学にしてはあの世界観が壊れるからだ。
だからそちらの作品は知らない。
しかし「がんばれタブチくん」は大好きだ。よく出来たアニメだった。
やり過ぎな位の演出で抱腹絶倒だった。今もついついいくつかのギャグが脳内再生されるくらいだ。
だからどうしてもそのイメージが強い。
強いからこそ、あのギャグをやるのか、とびっくりしたのだ。

高畑さんでギャグは殆ど知らないが、「じゃりン子チエ」の笑いの<間>の取り方の良さはうまかった。
しかしストーリーものと四コマとのギャグの違いは大きい。
どうやるのだろう…

いしいひさいちの作品集ドーナツボックスの個々のタイトルを、単独作品群のタイトルを思い起こす。
いかにも葡萄、ああ無精、忍者無芸帳、滞納するは我にあり、101匹忍者大行進、椎茸食べた人々、馬力の太鼓…
パロディ精神に富んだタイトルがとても好きだ。
膨大な作品群の中で特に意味もなく好きなのが「ケン一くんシリーズ」。
これはもう本当に暫くするとイラッとくるが、それを越すと次はなんだ次は次は、と楽しみでしょうがなくなる。

そんなことを考えていたが、高畑さんが映像化するのは山田くん一家の話だった。
新聞連載のあの一家、「ののちゃん」ところの家。
そう、大阪弁のばあさんと母親と、あんまり出世と縁のない父親とおとなしめのお兄ちゃんと、ちょっとにくそい目つきの犬とがいる山田家。
わたしは違う新聞の読者だが、定宿ではこのマンガの載る新聞を読む。
その度にニヤリ。
「山田くん」のほのぼのした暮らしぶりもわるくないが、むしろ前述の不条理なギャグを映像化した方が「おもろい」のではないか、と勝手なことをわたしは思った。

しかしながら高畑さんは山田くん一家を映像化することを選んだ。
正直に言うと、一瞬、何かの余興と言うかイベントかとも思った。
正しく言えば一種の道楽かと思ったというべきか。
要するに老境に入りつつある大作家のほっこりした作品かと。
タイプは違うが、鏑木清方が展覧会の仕事の第一線から退いて「卓上芸術」として物語絵や挿絵口絵を楽しく制作するようになった話があるが、あんな感じなのかと思ったのだ。

が、これはそうではなかった。
巨額を投入して実験的な手法で構築される作品なのだ。
むろん商業作品としてメジャーな映画館での上映が目的なのである。

水彩画タッチであの絵柄を映画館上映する…
そんな実験的な手法で映像化する…
それも水彩画風って…
しかも原作は「新聞連載中の」山田一家の日常の話。
特に大事件も起こらないし成長譚でもない、日日譚。
読んでニヤリと笑ったり、「あるあるー」と共感したり、イケズやなーと黙って笑ったり、「またーいしいさーんw」と作者に親しく呼びかけながら読む作品。
それを何故選んだのか。
高畑さんが日常生活を描く名手であることも忘れ、疑問符が湧くばかりだった。

イメージ (2263)

正直な話、高畑さんの狂気を感じたのはこの「ホーホケキョ となりの山田くん」の仕事からだ。
それまではただ素晴らしい映像作家だとしか思っていなかった。
名作を世に送り出してくれる名監督だと。
それだけにこの作品をこのような形で映像化すると知った時、非常に強い衝撃を受けたのだ。
酔狂、道楽の極みではないか。

しかし、思いがけず突いて出た言葉が「狂気の沙汰ほど面白い」でもあった。
このセリフは福本伸行「アカギ」で盲目の代打ち・市川が口にし、アカギもまた鸚鵡返しに吐いた言葉だ。
わたしは戸惑いながらも一方で「狂気の沙汰ほど面白い」とも思っていたのだった。

ところでここで「となりの山田くん」の基礎データを挙げるサイトを発見したので紹介する。
こちら

前置きが長くなりすぎたが、このことは隠せないことなので挙げる。
そしてそのうえで展示資料を見た時の衝撃がいかに重たいかを言いたい。

省線。
いしいひさいしちの作画は執拗な描き込みを避け、省線でそれでも一目でわかる個性を有するキャラ達を造形する。
「がんばれタブチ君」の昔から似顔絵で造形されたキャラたちは、みんなどこかコッケイで、憎々しい奴でさえもいつの間にやら妙な愛嬌を読者に感じさせるようになっている。
広岡、ナベツネ、中曽根といったキャラたちも大阪弁でいう「にくそい」奴らだが、出てくるとついついニンマリ笑い、親しみを感じたりする。
四コマ漫画は短いコマ数で物語を構築するから、連載の場合、背景の「世界」が最初からある程度明らかにされても揺るがないほど、しっかりしていないといけない。
ここでいう「世界」とは世界観のことであり、歌舞伎や文楽での「世界」と同義語である。
前提としてこのキャラはこういう人だと知っていないと、面白味が失われるときもあると思う。
新聞連載の「ののちゃん」は昔の作品に比べると毒も薄いが、それはやはり新聞ということが作用しているだけで、違う媒体で描けばまた更に鋭い皮肉が加わるのではないかたまに思うこともある。

その線描を水彩画で再現するというのはもう本当に狂気の沙汰ではないか。
シンプルな絵を動かすのに凄まじいばかりの技術が必要だという恐怖。
展示を見るうちに背筋が寒くなった。
前掲の基礎データを記したサイトにもあったが、15万枚以上の作画枚数が110分の映像作品の中で必要とされたのだ。
何故そこまで…
演出家の絶対的な命令のもとで、凄まじい仕事をしたスタッフたちを思い、声も出なくなった。
だが、絶対に必要だったのだ、その仕事は。

そんな凄まじい労苦を全く感じさせぬほんわかムードの作品「ホーホケキョ となりの山田くん」が、例によって予定より遅れてようよう完成した。


1999年に上映されたとき、うちのオジが殆ど何の気負いもなく見に行った。
どうだったかと訊くと、のんびりできる映画やったなあ、と言った。
元々オジもいしいひさいち、植田まさしの四コマまんがが大好きなので、これは高畑作品として見に行ったのではなく、いしい作品ファンとして見に行ったようだ。
後日オバも見に行き、やはり同じく「のんびりした映画で、淡々としててところどころ笑えたわ、なんか色が薄かったわ」と言った。
技術的なことばかりがアタマにあったわたしはそうなのか、とそれらの意見を聞いていた。

残念なことにこの時期のわたしは空前の体調不良が続いており、毎朝「ああ、よかった、まだ生きてる」と思いながら目を覚ますという状況だった。夜は寝る間に死ぬかもと不安に駆られていた。
そんな体調だったので、結局この頃は何もできず、会社に行くだけで精いっぱいだった。
そのとき身体だけではなく心も傷んでいたらしく、その淡々とした日常譚の作品の感想を他者から聞くのを楽しみにしていた。
自分が日常へ戻れない恐れを感じていたからかもしれない。
オジの買ってきた山田くんのマンガを読みながらわたしは静養していた。

基本的に波乱万丈な作品が好きで日常を描いた作品は案外ニガテだ。
子どもの頃から今もそれは変わらない。
もう随分な年齢に来たがそれでもワクワクドキドキがないといてられない。
思えば好きな美術作品にもその傾向が出ているのかもしれない。
静物画や西洋の田園風景を描いたものを見ても殆ど何も感じない。
物語性、文芸性、抒情性の高いものにばかり反応する。

この99年以降わたしはアニメだけでなく映画からも離れた。
芝居を観るのも少なくなった。
なのでこれ以降の作品は本当に殆ど知らない。

「おもひでぽろぽろ」「ぽんぽこ」の資料を見て、スイカがおいしそうだとか、タヌキがやっぱり可哀想だとか、そんなことを思いはするが、あまりに知らなさすぎて何も言えない。


「かぐや姫の物語」に全身がざわめいた。
何という物語だろう。
イメージ (2260)
描かれたのは平安時代の若い女の生き辛さだった。
月から地上へ流された姫の「罪と罰」を目の当たりにするのかと思ったが、そうではなかった。
非情なまでにはっきりと表現された、女の意思など完全に無視される様子に、見ているわたしも憤った。
かぐや姫が楽しそうにするシーンの素晴らしさと、憤りの激しさの表現。
物凄い作品だと思った。

かぐや姫の憤り、苛立ちの表現が展示されていた。
無論それだけではなく、かのじょの歓喜もまた紹介されている。

姫が歓喜する花見のシーンは本当に綺麗で、姫の喜びが爆発しているのがよく伝わる。
見ているこちらもとても楽しくなる。
この作品では喜びや憤りを身体的な動きが表現するシーンがたいへん印象的だが、観る側がこんなにも共鳴・共感できるということは、そこへ導くために凄まじいワークがあるわけだ。
その一端を資料から読み取ると、正直な話、姫と一緒に喜ぶことはできなくなる。
なんという激務だろうか。
単純に「観て喜ぶ」「観て悲しむ」「観て怒る」といったことをしていてはいけない気がしてくる。
しかしそれは作り手ではなく受け手であるわたしたちが考えてはならないことかもしれない。
映像を見て楽しむなり考え込むなりはこちらの勝手だし、作り手の期待でもあるかもしれないが、作り手の労苦を思い、そこに戦慄するのは傲慢かもしれない。
むしろそのことをスルーするべきかもしれない。
そんな苦労を知ってくれ、とは監督は言っていないのだ。
だが、知らない顔をしながらも、知っておくべきことでもある。

ところでこれはあくまでもわたしの勝手な感想なのだが、姫の歓喜が途切れたとき、ようようたどり着いた義母の媼と女の童にすげなく帰ろう、というかぐや姫に対し、個人的に「ええええ」と思っている。
姫は姫で心を痛めることがあったにせよ、優しい義母と親切な女の童にも少しは楽しみを、と思うのだ。
その点、わたしは姫の感情には寄り添っていない。

赤ん坊の頃の姫のころころ映像、これがやはり素晴らしいと思う。
資料を見ながら思い出したのが、子どもを描く名手中の名手・いわさきちひろだ。
彼女はモデルなしで生後60か月くらいまでの幼児の月齢をきちんと描き分け出来る人だった。
姫の成長の様子を見ると、ちひろの仕事を思い出す。

姫の憤りの動画をみる。凄まじい走力で屋敷を駆け抜け、平安の夜の闇の下を疾駆する。
決してそこには爽快感はなく、激しい憤りの風が吹きすさんでいるだけだ。
この時の姫の表情が激しい。眉に憤りが集中している。
ここで思いおこすのは、姫が都人の一員になるためにと雇われた女官の相模により、自前の眉をぽつぽつと抜かれるシーンだった。
痛さがこちらにもわかるのは、姫の身体が抜かれるたびにぴくっぴくっと動くからだ。
ひとの感情は眉に現れる。
そのことを思い、姫を見る。

憤りのまま疾駆する。
こうしたシーンを他で見たかを思い起こす。マンガでは見ていてもアニメーションではわたしは見ていない。
怒りではなく憤り。着ていたものを脱ぎながら身軽になって山へたどりつく。
木地師は他の山を経巡り中で、ここへはあと十年は戻らないのだ。

終始一貫して感じるのは鬱屈だった。
女性という性であることが、こんなにも制約をかけられることに改めて苛立つ。
言い寄る貴公子たちのくだらなさ。その中でも巧いことを言うやつがいて、一瞬心がゆるみかけるが、それもすぐに終わる。
こうした心の動きを何故この高畑勲という人は「わかる」のか。
そして帝によるセクハラといっていい行為に全身が嫌悪でぞわわっとなる姫。
姫はわたしたちでもある、と実感する。

子どもの頃に共に遊んだ捨丸との再会と、飛行。
このシーンが紹介されている。
あああ、なんという感覚だろう。
改めてこの浮遊感、飛行感覚がリアルに感じられる。
姫はこの男となら自分は幸せになれたかもしれないと思うのだが、実際にはこの男にはもう他に家族がある。
この、共に飛ぶ時しか共有できない感情。
姫は結局誰とも一緒にはいられないのだ。

空を飛ぶ爽快感は「ハイジ」「アン」のオープニングでも感じられた。
ここではそれより時間が長い。
その分体に感じる風は強いだろう。
映像を見ながらわたしは頬にあたる風を感じる。


最後のコーナーにきた。
来迎である。音曲は人の世とは無縁なものだ。
物語の終焉であり、展覧会の果てでもある。

人間の生命には限りがある。
高畑勲という人はこれだけの作品群を遺して遠くへいってしまった。
最後の作品「かぐや姫の物語」で描いたように天空を飛んだのか、都路を駆け抜けて山へ疾駆したのか、それとも満開の桜の花びらに乗って散ったのか、それは誰にもわからない。
ただもう二度と新作はない。帰っても来れない。
残されたわたしたち観客は、古い作品からこの「かぐや姫の物語」までを再生し続け、高畑勲という天才の仕事を追想するしかない。

展覧会は間もなく岡山で始まる。
東京国立近代美術館での展示は終わってしまった。
観ることが出来て本当に良かった。


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