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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

川本喜八郎 リスペクト

川本喜八郎リスペクトが上映されている。
ナナゲイで上映中だが9/8まで。

川本喜八郎の人形を知ったのは、NHK人形劇の三国志からだった。
それ以前は知らない。
ただ、辻村ジュサブロー(現・寿三郎)の略歴の中に、同じ人形師として川本の名が挙がっているのを見たくらいだった。

三国志はたいへん人気を得て、’93正月には川本喜八郎人形展が開催されたが、内容はやはり三国志だった。
少し間をおいて’01松坂屋でも人形展が開催され、そこでは平家物語も出ていた。
VTR上映で『道明寺』『鬼』『いばら姫 または ねむり姫』が流れていた。

わたしは『いばら姫 または ねむり姫』を愛しているが、当初見ることが叶わなかった。
この作品は'90に毎日映画コンクールを受賞して、その記念に草月ホールで上映されたのだが、関西には来なかったのだ。
毎日新聞に確認して、暗い気持ちになったことが今も忘れられない。

しかしわたしは諦めなかった。
執拗に、待った。
今年の春に『死者の書』が川本の手で映像化されたとき、<人間の執心ほど恐ろしいものはありませぬ>と台詞にあったが、その通りだった。
わたしは'00手塚治虫記念館で、『いばら姫 または ねむり姫』を見ることが叶ったのだった。

実はここで打ち明けると、'90当時、川本が『徹子の部屋』に出演し、数分間映像が流れたのを、わたしは録画していた。
だから全くの初見ではない。
そしてこの原作をわたしは所有している。
女優・岸田今日子の短編小説である。

岸田今日子の作品世界は、そのどれもが背徳と美しい残酷さに満ち満ちている。
残酷という言葉に美を感じるのは、岸田今日子の作品だけだと言ってもいい。

その作品を渾身の力をもって川本喜八郎が映像化したのだ。
魅力に欠けるはずがなかった。
いま<魅力>と言ったが、むしろ<魔力>が正しいだろう。
川本の力と岸田今日子の呪術的な力とが一体化しただけでなく、言えば川本の母胎たるチェコのイージィ・トルンカ・スタジオの総力も加わって、全く息を呑むばかりの映像作品が誕生したのだ。
これを我々は長らく待たされたのである。
img294.jpg

画面が出てからまたクリックするとかなり読みやすくなります
・・・時間の都合と勘違いもあって、わたしがナナゲイについたのは既に切り絵アニメーションが終わろうとしているところだった。
セルフポートレートを見損ねたのは残念だが、'73の『旅』を今年になって再構築したものにはあまり関心が湧かないので(私は'70年代の思想がニガテなのだ)最後を少し見ただけである。
そしていよいよ人形劇『鬼』が始まった。

この作品は今昔物語に材をとったそうで、蒔絵を背景にして、文楽風なカシラに太棹が響く。
いい音色だと思うのも当然で、やはり鶴澤清治である。
天才・鶴澤清治。その太棹に乗り、物語が始まる。

烏帽子姿の猟師兄弟は寝たきりの老母に仕えて、日々を過している。
老母は若い頃には美しかったようだが、今では老いくたびれたうえに、病に伏せている。
そのことを、老母は心の中で深く思い巡らしている。
兄弟は猟に出る。弓矢を抱えて深い山に入るが、後に続く弟は何かの気配を感じる。
振り向けば光る目がある。
しかし兄が振り向けば、そこには蛍が群れるばかりである。
そのような対話が続くのは、シューベルトの『魔王』にも共通することだ。
しかし、ついに兄弟はもののけが自分たちを追っていたことに気づかざるを得ない。
弟の烏帽子が鬼の腕に掴まれている。
暗闇の中、兄は弟に声をあげろと命ずる。
その声の上を狙うから。
びゅんっ 弓が走り、腕が切断され、烏帽子を掴んだまま地に落ちる。
兄弟の驚きと慄き。
この腕は。

兄弟があわてて帰宅すると、奥の間では老母が呻いている。片腕の先が、ない。
見る間に鬼の形相となる。

<親も年取れば鬼と成ってわが子を食おうとする、と今昔物語は語っている> と物語は結ばれている。

なんという不条理な物語だろうか。
新潟の弥三郎婆も子は食おうとはしなかったのに。
楳図かずおの『怪』か『恐怖』にもこうした話があった。
感性の鋭い二人の作家は共に原典を同じにして、物語を描いたのだろう。
救いようのない物語。
しかしわたしは不意に、この老母は子が男でなければどうだったろう、と言う疑念を持った。
若く逞しい二人の息子に何を見ていたのだろうか、と。
生きることは無残なことだ そんな思いが残った。


『火宅』は能の『求塚』を題材にした、やはり不条理な物語である。
僧がいにしえのうないおとめの塚を詣でようとすると、女がそこへ導き物語する。
これは能の常套である。
目の前にいる女はそのうないおとめに他ならない。
二人の男に愛され、どちらも傷つけるのがイヤで自害した乙女は、死んでからも安穏とはいられない。
二人の男が殺した鴛鴦の生き残りのメスに脳髄を啄ばまれ、激しくのた打ち回る。
この苦難は果てることがない。
二人の男は共に刺し合い、これも命を落としているが、二人の後生は語られず、死後の苦難は見えはしない。
ただただおとめの苦難が続くことが僧に伝わる。

鴛鴦のメスが自分の夫を殺した男たちでなく、そうさせた(と鳥の論理は生きている)乙女を呪い、攻撃を続ける。
では乙女はどちらか一方を選べばよかったのか。
そうではないことを我々は知る。
乙女の苦難は僧の読経でも救われない。
永劫の地獄の業火に焼かれ続け、一瞬の安寧も許されない。
人形の白い顔に悲痛な何かが浮かんでいる。
神仏の手から零れたとしか思いようのない、業苦。
酷い物語は、朝を迎えても、ナマナマしく僧の心に残る。
五百年の歳月をそうして乙女は苦しみ続けている。

見終わったとき、息苦しく、胸重いことに気づいた。
神仏に救われぬ魂はどこへ行くのか。
永遠にその場に留まり、火宅に苦しむのか。
乙女の白い顔がいつまでも意識に残った。
音楽は武満徹。語りは観世静夫(後に八世観世銕之亟)。
武満のゲキバ音楽は名品が多い。このスコアも忘れがたい曲線を描いている。
また川本の最新作『死者の書』エンディングタイトルに観世銕之亟の『當麻寺』が流れていることは、記憶に新しい。

img293.jpg

『道成寺』
この物語は人口に膾炙して久しい。
舞踊にもなり、年中どこかの劇場で踊りを見ることが出来る。
ただしそれはこの物語の後日譚なのである。

小林古径、村上華岳、松岡映丘、森田曂平らが清姫を描いている。
マンガ家星野之宣も道成寺を描いていた。
文楽では『日高川』の外題で古い物語を舞台に乗せてくれるのを見ることが出来る。
無論、古絵巻にもこの物語は描かれている。
今でも紀州道成寺に行けばお坊さんが迫真の演技で安珍清姫の物語を絵解きしてくれるし、大和文華館でも朱と墨で描かれた絵巻を私は見ている。

川本の人形は表情を変えない。カシラを変更するだけだ。目を開けている・目を閉じている。
極端を言えばこの二つだけで構成されている。
この二つのカシラが川本の力業で、女の情念と男の恐怖とを描きあげたのだ。

世間に流布されているのは、国司の娘・清姫が安珍を見初めたとあるが、原典では女偏に取の娵である。川本は原典に沿う。
これは八世三津五郎の著書にも詳しいが、彼女は後家さんなのである。
しかし後家だろうが娘だろうが情炎に灼かれるのに変わりはない。行動力が伴えばなおさらだ。
清姫は一目で恋に落ちる。
清姫の意識には安珍だけが立つ。

正直言うとこの安珍は中日ドラゴンズの川上憲伸によく似ていて、私が清姫ならパスなのだが、清姫は必死で追う。
道心堅固と言うのか、安珍には迷惑千万どころの騒ぎではない。
方便。
清姫は彼の念持仏を渡されて、嬉しくて舞い舞いしそうである。
しかし数日後、清姫は<裏切られた>ことを知る。

駆ける駆ける駆ける。
道行く人はその姿を見て笑っていたが、段々とその速度は人の目では追えなくなる。
翔ける翔ける翔ける。
カメラは清姫の裸足を追っている。
そして清姫の顔のUPが出た。
長い髪はもつれにもつれ、白い頬はいよよ青褪めた。
執着は増大するばかり。

とうとう、彼女は日高川へ飛び込む。
波間に沈む長い髪。浮き上がる顔。掻き分け泳ぐ腕。
そして。

道成寺の六十二段の階を一気に駆け上がり、助けを求める安珍に、僧たちは驚く。
しかし大蛇に化生した女(だったモノ)が押し寄せるのは彼らも感じ取る。
とうとう梵鐘を下ろし、その中に安珍を隠す。
安珍はひたすらみ仏にすがりつく。

僧兵も出て門を守ろうとするが、門は大蛇の一撃で壊れる。
龍にもなれぬ大蛇の首。炎を噴き出して七重に鐘を巻く。
血の涙と炎。
ただただ哀れさが身に迫る映像だった。

やがて大蛇は去ってゆく。
黒くなった鐘を僧たちは開く。
そこには最後まで清姫を拒絶したままの安珍の白骨があり、一瞬の風に攫われるや、灰になって消えてしまった。

何もかも、終わってしまった。
自分の手で終わらせてしまった。
清姫は一瞬で燃え上がり、一瞬で燃え尽きた。
無残な恋。
拒絶されるだけだった恋。

清姫の表情に胸を衝かれたのは、私だけではなかったろう。
しかし誰もがこの世の果てのような恋をすることはないのだ。
ファム・ファタールとはまた少し異なると思う。
同じように男に一目で心を奪われても、彼女はサロメにはならない。

安珍はなぜ救われなかったのか。
前世の悪業があったのか。
神仏にすがることで救われるのは、幻想に過ぎぬのか。
安珍は一体なぜそこまで女を拒絶したのか。
・・・なにもかも、答えが返らぬままに物語は終わってしまった。


最後の時間が来た。
『いばら姫 または ねむり姫』

冒頭で述べたように、チェコのスタッフと岸田今日子の呪力と川本の力業の綯い混ざった傑作である。

原作は最早絶版になっているのではないか。
私が持つのは角川版の文庫本である。
珠玉の物語集、残酷な美に彩られた煌く物語たち。

旧来からの童話を大人向けに書き換える作業をしたのは、いずれも個性の強い作家たちだった。
石川淳『家なき子』、佐野洋子『赤頭巾ちゃん』そして岸田今日子『いばら姫 または ねむり姫』。

欧羅巴の姫君を川本は作り出した。
トルンカ・スタジオのスタッフたちは川本の意図をよくくみ取り、ヨーロッパが舞台だと言うリアリティを構築した。
先にあげた『徹子の部屋』の中でも、川本は人形にリアリティを持たせるために様々な工夫をしたと述べている。
わたしはそれを息を呑んで見守るばかりだった。

15歳になった<わたし>=姫は母の日記から、昔の恋人の存在を知り、森の奥へ向かう。
母を置いて戦場に出た青年は死んだとされ、母は仕方なく王の妃に迎えられるが、子を産まない約束をした。しかし、とうとう彼女は諦めたか・ほだされたか、王の子どもを生んだのだ。
その祝の席に現れた男。
<わたし>は森の奥の小屋に住む男の前に立つ。
母を許してください、と言うと、男は一言「だがお前を生んだ」
<わたし>は肌をさらしながら告げる。
「母の代わりにわたしを」
そのまま男に抱かれるが、男は耳元で<わたし>ではなく母の名を呼んだ。
「<わたし>は身体からも心からも血を流しながら去りました。」
男を想う<わたし>は以後、無口になり気難しくなる。
母は病に伏せている。
母には<わたし>に何が起こったか、悟られている(だろう)。
<わたし>は再び森を訪れるが、あの日と同じようにリスや鹿が森を走るのに、男はいなかった。
世間では、錘に傷ついた姫君ということが流布されていて、どんな傷痕ですかと問う貴公子には
「ではあなたの錘はどんな形?」
と問い返す。
しかしある日とうとう母が果敢なくなってしまった。
悲しいが、そのとき<わたし>の心の中の何かがガチリと外れた気がする。
やがて遠国から王子が訪れ、彼を婿に迎えると、国中が元のように明るいムードに包まれた。
「幸せか、ですか、二人は幸せに暮らしました、と物語では書かれていますから、幸せです、とお答えするのが礼儀ではないかしら」


姫は「母の代わりにわたしを」と言って男を誘ったが、あれは本当は「母よりもわたしを」という意味なのだろう。
しかし男はやはり<わたし>の上に母の面影を重ねながら抱いたのだ。
<わたし>のブルネットの髪を撫でてくれたのに。
母の金髪をそこに思い描いたと言うのか。

なまなましい感情がそこにある。
それを愛くるしい面立ちの人形が隠したり、故意に曝したりしている。
姫の眼差し。
男は姫のやさしくふくらんだ胸を見ていたが、人形だからこその造形美をそこに感じた。
王冠、ドレス、十字架、グラス・・・
小道具の一つ人が極めて精巧なのである。
これがやはりチェコアニメーションの国の力なのだと思い知らされる。

豊饒な余韻に酔いしれたまま、劇場を後にした。

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コメント
遊行七恵さん、こんばんは。
とても読みごたえがあって楽しませていただき、有難うございました。
童話とその解釈、決して子供のメルヘンチックな世界ではなくて、エロス漂う大人の世界がありますね。

以前、私のブログに書いたことがあるのですが、去年の10月頃に『球体関節人形』展を観に行きました。
「三国志」の川本喜八郎さんの人形とはまた違った面白さ、興奮がそこにはありました。
四谷シモン、吉田良、天野可淡、恋月姫といった創作人形作家の作品が不思議な空間を作り上げていました。

澁澤龍彦氏が自分の書斎に置いていたハンス・ ベルメールの球体関節人形も観たことがあります。
四谷シモン氏はこのベルメールの球体関節人形に触発され、人形作りを始めたそうですね。

また、高橋克彦氏の小説「ドールズシリーズ」が大好きで、主役である江戸時代の天才人形師・泉目吉のファンでもあるのです。
長々と申し訳ありません。
2006/09/04(月) 23:54 | URL | sekisindho #-[ 編集]
sekisindhoさん こんにちは
わたしは辻村ジュサブローで人形の美に打たれ、ホリヒロシ、川本喜八郎の世界を逍遥するようになりました。
四谷シモンの人形も好きです。
彼の自画像でもある天使など。
また、吉田良の少女たちと対峙すると、ジェンダーを乗り越えて、この少女たちの幼い身体を暴いてみたいと思うのです。
乱歩の『人でなしの恋』ではないですが、わたしは人形を偏愛しています。
2006/09/05(火) 09:57 | URL | 遊行 #-[ 編集]
川本喜八郎さんの世界は、先日の『死者の書』が初めてでしたので、まだ全面的に理解するにはいささかの修行を要するみたいです。

>岸田今日子の作品世界は、そのどれもが背徳と美しい残酷さに満ち満ちている。
残酷という言葉に美を感じるのは、岸田今日子の作品だけだと言ってもいい。

とありますが、岸田今日子は小説も書いているのですか?
「背徳と美しい残酷さ」というのは聴いただけでぞくぞくしますね。どんな小説なのでしょう?
2006/09/05(火) 11:32 | URL | red_pepper #-[ 編集]
お世話になっております 「道成寺(日高川)」と「いばら姫・・・」のくだり なんともいえません

いささか不謹慎かもしれませんが 「日高川」の男女を逆にして書き換えたものを 観てみたく思うのです
現代的な意味では そちらのほうがしっくり来るかと
(今 おのが感情に囚われて追いかけるのは いつもおとこの方・・・もっとも ものがたりの作られた時代が 女性性と女性とを分けていなかった為かもしれませんが)
ささやかに 気持ちの浄化が叶うことも 期待しておりまして・・・

ご自愛ご健筆を それでは
2006/09/05(火) 18:17 | URL | TADDY K. #1xXJNkSU[ 編集]
☆ red_pepper さん こんばんは
岸田今日子の小説は短編にしろ長編にしろ胸を刺す話が多いです。
たとえば『七匹目の仔山羊の話』は『あらしの夜に』が世に出る以前に描かれた作品ですが、無惨な愛情を感じます。
やなせたかしの『チリンの鈴』もそうですが。
『セニスィエンタの家』を読んでからシンデレラをそのままで見ることが出来なくなりましたし。
多くの人に知ってもらうより、ごく少数の人だけが愉しむ方が相応しい作品世界なのです。
ルビィ。
その表面は美しいけれど、光の煌きに闇の深さを感じる。
・・・そんな雰囲気です。

★TADDY Kさん こんばんは
>「日高川」の男女を逆にして書き換えたもの
ストーカーですね。現代なら。
わたしはトリュフォーの『アデルの恋の物語』を愛しているのですが、アデルも清姫も炎に焼かれてしまったことを思うと、破滅してまで欲しいか、と考え込んでしまいます。
魂の浄化は破滅しきらないとないのかも、と思ったりします。
2006/09/05(火) 22:35 | URL | 遊行 #-[ 編集]
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