とにかく若かった錦之助が飯倉家代々の侍を一人で演じ、<被虐の系譜>を体現している。
初代の、忠義に死ぬ武士、その息子の死までは「もののふならば」と肯定し納得もゆくのだが、それ以降が凄まじい。
脚本は依田義賢と鈴木尚之。オムニバスだから短いエピソードが7話あるが、どれをどう書いたかはわたしにはわからない。
この作品は冒頭でサラリーマン飯倉進が、自殺未遂の恋人の枕辺で、かつて読んでいた先祖代々の無残極まる生涯を綴った日誌を追想することから、始まっている。
語り手でもあり、主役でもあるのは一人の役者なのだが、それが救いに感じるほど、物語は次々と悲惨な状況へと移ってゆく。
殿様はまず東野英治郎(水戸黄門だ)に始まり、飯倉家初代を家臣に迎えた後、島原の乱での失策を、その飯倉次郎左衛門により、救われる。
つまり主君のために腹を切り、責任を全て背負ったのである。
これは主君への忠義と恩愛の念から来た行為なので、個人と言う考えがない頃には、美談なのである。見ていても、錦之助の静かな決意が浮かぶ表情に胸を打たれる。またその行為が納得できる強さが演技に出ている。
その子息・佐治衛門の死もまた<時代劇>という範疇の中では奇矯なものではない。勘気を蒙り、再び出仕したいと思う若き佐治衛門のせつなさ。
生まれたばかりの赤子をあやしながら、その思いを歌うように口ずさむ佐治衛門、錦之助はこの青年武士のせつなさ・まっすぐさを気負いなく、衒いなく演じている。見ていて憐れで仕方ない。
彼の生は再度出仕すること、それだけに費やされ、今の身は抜け殻にも等しい。自虐と悲哀と、しかし<武士>としての矜持は決して捨てることはない。
が、老齢の殿の死が全てを無駄にする。
殿に許されることなきまま、自分は生き永らえている。
その自覚が佐治衛門の生を絶つ。
殉死することだけが、自分を救い、家名を救うことになる。
渡辺美佐子の演じる妻は、夫を死なせたくはない。しかし夫の意思は変えられない。生きていたとしても抜け殻同然になることはわかっている。
しかしそれでも<自分の夫>には生きていてほしい。
その心模様がこちらにもよく伝わる。
次々と藩士が殉死したと言う報せが入ってくる。
居ても立ってもいられない。その心の焦りが妻や使用人たちの表情に表れている。
しかしもう止めようがない事態にも、皆は直面している。
白装束の錦之助の静けさ。
こうした居ずまいに、彼が梨園の出身だということを感じさせるのだ。
塩冶判官が切腹するまでの手順。何故ここまで丁寧に<みせる>のか理解し難いほどの丁寧さでもって進む、死の儀式。
それがこの場にもいきている。
郎党ともなんとも言えぬ家来に介錯を命ずる。
グイッと腹に刃の入るナマナマしさが、背中越しにも伝わるようだ。
突くだけでは切腹にはならない。真一文字に割り裂かねばならない。
そして、別室でことが済むのを待つ人々の胸に「鋭ッ」と気合声が響く。
丁寧に包まれた生首。
こうして武士の一分は立ったのだが・・・。
話の流れとしてここまでは言えばよくあることなのだが、その次がさすが元禄時代、さすが南條範夫、という事態に入り込む。
作者の南條範夫は、経済小説と時代小説の二筋道を歩んだが、圧倒的な人気を博したのは、間違いなく時代物だった。
しかも<残酷もの>と呼ばれる分野を開拓した人でもある。
被虐と嗜虐の鬩ぎあいを描ききった作家である。九十歳を越えて最後の小説『一十郎とお蘭さま』という作品を上梓したが、そこにも被虐の美意識は生きていた。
そしてもう一つ、南條範夫は少年の美に深い関心を寄せ、捩れたような複雑な小説を多く描いて、楽しませてくれた。
第三話の主人公・飯倉久太郎がいた時代が元禄だったというのは、恣意的ではなく必然だった。
元禄時代はとにかく色子の美に陶然となる人々が多かった。
この時代の殿は森雅之が演じていた。『浮雲』でどうしようもない行き止まりの男を演じた、深い魅力のある役者。
わたしは森雅之のまなざしにときめくので、二重の意味でこの作品が見たかったのだ。(はっきり言うと、このエピソード目当てで見に来たのだ)
モノクロ映像なのに、蝶や花が飛び交うような華やかさがそこにある。
贅沢で豪奢で退廃的な元禄の世。
踊り子、というのはこの時代では少年たちのそれを多く指していた。
殿の前でその踊り子たちが群れて踊っている。
殿は特に沢村精四郎(後の沢村藤十郎)演ずる美少年・七三郎がお気に入りである。
少年たちの刻限を切られている美に陶酔する殿は、奥方にも側室・萩の方(岸田今日子)にも目を向けない。
醒めながら酔うのは、英明な主君であることが却って藩の存亡を危うくすることだと知るからだった。
そうした意識を森雅之はひどく巧く演じている。
戦後すぐの『安城家の舞踏会』でも零落する貴族の長男を演じて、醒めた意識のまま堕ちてゆく様をみせてくれた。
萩の方ももう長らくお見限りである。女たちの冷たい怒りにも殿は薄ら笑いを浮かべるだけだが、そこへ湯島の学問所に派遣している少年藩士たちの挨拶が来る。
この殿はバイというよりむしろゲイなのか、少年たちの一群れににこにこと笑顔を惜しまない。
そして挨拶をする前髪立ちの美少年・飯倉久太郎に目を留め、深く心を動かされる。そのときの森雅之の目に広がる欲望は、モノクロ映像とは思えぬほど、鮮やかな色彩に満ちていた。
控え室でくつろぐ少年たちのうち、久太郎だけが殿に呼び出される。
久太郎はそれを栄誉だと感じ、誇らしさを隠そうとしながらも、嬉しげである。
無邪気な少年の嬉しそうな表情を、錦之助は素直に演じていた。
考えればこのとき既に彼は少年から遠く離れた年頃だったのだが、十二分に少年に見えた。
少年の<支度>をするのは萩の方である。惨い役目を負わされている。
しかし少年も自分に何が行われようとするかわかっていない。
わかってからの錦之助の表情の移り変わりがみごとだった。
しかし逃げることも出来ず、殿の臥所に連れられてゆく。
精四郎のお小姓の、嫉妬に燃える視線。
殿はそれをも感じながら久太郎を味わう・・・
やっと解放された後の久太郎は、萩の方の前で激しく泣く。
「殿の愛寵をお受けしたお手つき小姓となるのに何を泣く」
殿からの寵愛が遠く離れてしまった側室の恨みも消えるほどに、少年の悲痛な涙は重く激しい。
しかしそれ以後、久太郎は殿の寵童として夜も日もないほどに弄ばれる。
その久太郎の鬱屈を、錦之助は眉の辺りで巧く表していた。
森雅之の殿はやはり表情がいい。
萩の方と久太郎をモデルにした絵を描いている間、二人の心の流れを鋭く感じ、見事な絵を墨で消してしまう。
嫉妬しているのが瞼の辺りでわかる。
そして久太郎を責めて責めて責め抜く。
「わしの心を傷つけおって」
抵抗できない久太郎の悲壮な声。
自分のものだという刻印を打つ殿。鋭い歯型が腕につけられる。
錦之助はその痛みに耐える顔に、嫌悪とともに薄い陶酔を忍ばせていた。
数日後、雨の日に茶室へ久太郎は呼ばれる。先客がいた。萩の方である。
そこへお小姓の声がする。
「殿様は御用がお出来になり、こちらでお待ちくださるように」
せまい茶室で二人は時間と距離を保てなくなる。
しかも久太郎の腕には殿の歯型が残っているが、萩の方の胸元にも同じく殿の歯形が浮かんでいる。
このときの岸田今日子がいい。
どういいかと言えば、明日のないところにまで追い詰められている実感がある、というのが一番近い。
『大奥』での中老、『忍びの者』での百地三太夫の妻で石川五右衛門と密通する女・・・深い欲望を秘めた肉体がそこにある。
ふたりは殿の眼を盗んで不義を働いたことで自害しようとする。
しかしそのとき、殿の声がする。
「死んではならぬ。久しぶりに目の保養をいたしたぞ」
お小姓を従えた殿がいた。殿は二人の情交を眺めていたのである。
ここで二人を放遂すれば粋(すい)な殿様になるところだが、そんなはずもなく、嫉妬に燃え狂っている。
「牢にひったてい」
向かい合う牢にそれぞれ押し込められた二人。
自死を賜りたいと願う二人に殿は冷たく言い放つ。
「いいや死なせぬ、生きて地獄を味わうがよい」
殿と小姓が去ると、替わって屈強の侍たちと医者が牢に入り込む。
医師の手には鑿状のものが握られている。
「羅切りの刑に処す」
その言葉の後、萩の方の泣き崩れる様子と、久太郎の悲痛な声とで
何事が行われたかを、理解する。
数ヵ月後、既に江戸屋敷から信州のお国許へ二人は返されている。
しかも久太郎の前髪もない。
何も知らぬ久太郎の母は喜んでいる。
「殿様ご愛寵の側室萩の方様をご拝領とは、めでたいめでたい」
ふたりは殿により夫婦にされたのだ。
絶望的な結婚である。
殿から・世の喜びから捨てられた二人だが、そのとき萩の方は胎動を感じる。歓喜する久太郎。
「わしの子が生まれるのじゃな」
最早二度とその機会は訪れず、この胎児だけが自分の血をつなぐ存在になるのだ。そして久太郎は二十五歳で世を去る・・・
ここで蛇足ながら付け加えると、作者・南條範夫は少年の美を前髪に見ていた。南條の数ある少年愛小説には必ずその前髪をめでる描写があり、同時にその前髪が失われることは、少年から美が・特権が剥ぎ取られることの象徴でもあった。前髪を失くした少年は、最早<美>の、<愛>の対象ではなくなるのである。
去勢されるだけでなく、前髪を失うことで、久太郎は完全に殿から廃棄されたのである。
また、映画の中ではラ・キリと発音されたそれは、一ノ関圭の作品『鼻紙写楽』での▲代目団十郎の息子の不幸な事件において、「あの子はラセツなんだよ」と書かれてもいた。
更に、拝領妻とは栄誉であった。それは飛鳥時代、既にそれを寿ぐ状況にあった。
殿のお手がついたものをいただくことは、一代の誉れなのである。
第四話の悲惨さも眼を覆わんばかりである。
ここでの錦之助は実に芸達者な役者だと感じさせた。
芝居、と言う点で全編を見渡せば、この第四話がいちばん錦之助という役者の芸を味わえるのではないか。
居合い斬りの達人・飯倉修三は殿(江原真二郎)の前で目隠しをしたまま剣技を披露する。見事な技に殿もご満悦だが、この天明時代は飢饉だの悪政だのでメチャクチャな時代である。この殿は女色に狂う殿様で、自分の快楽のためならなんでもする、どうにもならない殿様で、家老(佐藤慶)がこれまた殿のご機嫌を結ぶために、更に悪事を勧めるような輩である。
とにかくめちゃくちゃ。
百姓も苦しいから江戸に直訴に出て、田沼意知に書状を渡す。
しかし賄賂の世だから、結局は百姓の決死の願いも空しくなる。
百姓たちは国許へ送り返され、処刑されるのだが、どう考えてもサディストの殿様は家老の言を容れて、百姓たちを鋸引きという無残極まりない刑罰で処刑する。(鋸引きは中世の説経節に顕れる処刑法で、山椒太夫もそれで処刑された)
この辺りの描写は全く無残とも残酷とも言う言葉だけでは納まりきらない。
田沼には金だけでなく女も贈る事にして、修三の娘が当てられる。
この娘には修三の剣の弟子・一馬という許婚がいたが、どうにもならない。
江戸で「京人形」と書かれた箱を開ける嬉しそうな田沼意知。白無垢の娘の憐れさがある。
また今度は遠駆けの殿様の目に、修三の妻(有馬稲子)がとまり、早速呼び出される。今では蟄居の身の上の修三は、家のためにと妻を出すが、自害した妻の遺骸に慟哭する。
しかも江戸城内では田沼意知が佐野某により襲撃され(後日死去)、娘は修三のもとへ送り返される。
殿はその娘にも目をつける。
拒む娘と、元・許婚の一馬とは引っ立てられてゆく。
修三はただただ苦悩の人である。
それを錦之助は見事に演じている。自分の父くらいの年の男の苦衷と、苦渋に満ちた心中とを見事に表している。
何も出来ない無力さと、剣の技の見事さ。
それらを錦之助は静かに、そしてナマナマしく演じている。
やがて修三は幼い息子に「武士の命は己のものにあらず、殿のためのものなり」と言葉を授けて、呼び出しに応じる。
修三の前には被り物をされた囚人が二人いる。
目隠しをした居合い斬りで二人を処刑するよう命じられる。
じりっじりっと爪先が動く。
こうしたときに、錦之助の歌舞伎役者の血がのぞいている。
すり足ゆえの強さ。それを錦之助は映像にもみせている。
地を噛む足が飛び、そこに二つの生首が落ちる。
目隠しを外した修三の前に娘と弟子の首が転んでいる。
残酷な仕打ちだった。
諫言をあげた答えがこれだったのだ。
殿は笑いながら修三の手の甲に脇添えを刺し貫き、「褒美じゃ」と言う。
これぞ<武士道残酷物語>。
修三はその刀でもって切腹し、果てる。
そして家では、幼い息子が父からの遺言を繰り返し暗誦し続けていた。
話にならないくらい、残酷だった。
この後の物語は時代が飛び、明治に続いている。
武士道は既に断たれたと言うのに、文明開化の世になったというのに、いまだに飯倉家の末裔は主君への忠義に満ち満ちている。
廃嫡された殿(加藤嘉)を人力車に乗せて下宿先に迎える苦学生の新吾。
病人の殿様のお世話を君も頼むよ、とその下宿の娘で自分の許婚に話す。
明治らしい言葉遣いがなかなか面白い。
「君と僕」「し給えよ」
明るい青年を錦之助はのびのびと演じている。
殿様の加藤嘉は昔からどうもキモチ悪くてニガテな役者だ。つまりそれだけ芸達者なのだが、とにかく「うわー」である。ここの娘も同じくキモチ悪く思っている。
黒目がちな大きな眼をギラギラさせているのは、芸以前の話かもしれないが、それにしてもキモチ悪く、巧みだ。(『神々の深き欲望』でもそうだったが)
当然ながら誠意も好意も裏切られる。
官吏の試験に落ち、しょぼくれながらも帰宅した新吾の目に激しく泣き続ける娘の姿があった。事態を察しショックを受ける新吾だが、彼の口から出た言葉がすごい。
「君しか殿様をお慰めできないんだ」
穢されたことを気にしない、と言ったその口で、飯倉家の末裔は愛する女にそのことを強いるのである。
絶句し、男を軽蔑と絶望の目で見る女との、恐ろしいような時間。
しかし事態は急変する。
伽を待ちきれず慌てた殿様が二階の階段を踏み外して転落死するのだった。
こわいのは、そんな男と結婚することだと思う。
しかし彼女は飯倉家の血を繋ぐ。
現代に戻り、サラリーマン飯倉進は父や兄を思う。
仕えるべき故主を失くした飯倉家の男は、今度は国家に仕える。大日本帝国のために進の父は満州事変で戦死し、兄は特攻隊として空に散っていった。
白いマフラーは特攻隊のシンボルである。
九人の特攻隊の若者たちに、出撃命令が下る。上官は一人一人に杯を与え、言葉をかける。
誰一人としていやな顔はしていない。
進の兄・修も「日本のため、天皇陛下のために死ぬのだ」と誇らしげである。
戦闘機に乗り込み、エンジンをかける仕種にまで、その思いが見えている。
錦之助のまっすぐな眼差しが、痛々しい。
その飯倉進。
建設会社に勤務する彼には、ライバル会社のタイピストを勤める恋人(三田佳子)がいる。
彼女はなかなか仕事も出来るので、結婚後も働くことを決めているし、彼も勧めているのだが、それが却ってアダとなった。
ダムの入札金額を知りたがる上司のために、彼は恋人にその金額を盗むことをたのむ。
おかげで進の会社が落札でき、彼にも出世の道が開くのだが、結婚式の延期を勧められる。
ライバル社に事のからくりを知られぬために、と。
それを恋人に告げたことで、やけくそになり絶望した彼女が、自殺を決行したのだった。
ここで飯倉家の<被虐の系譜>を断ち切らねばならない、と進は決意する。
殿や国家に仕えなくとも、今の自分は会社に仕えている。
そして先祖同様、酷い目に遭わされている。
目覚めた恋人に、進は結婚しようと言う。会社も何も関係なく、二人で結婚しよう。
恋人もようやく元気になれそうである。
進がそのまま会社にいても未来は暗いだろう。昭和38年がどんな時代かは知らないが、それでも初めて自分の意思で生きることを選んだのである。
錦之助は目をきらきらさせていた。
今は苦しくなろうとも、トンネルの先に出口が見えたような眼差しをしている。
しかし、病院の窓の外には大勢のサラリーマンたちが歩き続けている。
個人としての<被虐の系譜>からの脱却は叶ったとしても、その先がどうなるかは誰にもわからない。
しかしこの作品は武士道そのものを痛烈に批判している。
昭和38年だからこそ、生まれた作品だったろう。
暗いことこの上ないが、たいへん深い印象の残る作品だった。
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遊行さんの鬼気迫る文章に思わず固唾を呑みました。
昭和38年、東京五輪を目前に活気溢れていた時代に
このような映画が撮られていたとは。
まだまだ引きずっているものも多かったのですね。
平和ボケした現在のキムタクの一分とのギャップ。
たまには、こんな映画も見たいなぁと感じました。
わたしは昔の映画を上映会などで見るのが好きなんです。
ですから東京のフィルムセンターにもよく行きます。
そのとき感じるのは、五輪前の映画界の熱気とその後の斜陽と現代の状況の温度差です。
今はもうこんな映画を作ることは出来ないとよく思います。
『真昼の暗黒』とか『蟹工船』とか。
重い映画ですが、たまにはこうしたものを見て気合を入れています。
僭越ながら よくぞお書きになりました と一筆御礼
今井正って確か 「青い山脈」の監督さんではなかったかと
産業としての余力があったのでしょうかなあ
川本三郎さんの時代劇映画エッセイ(「燃えよ!チャンバラ」)でも
この作品は取り上げられてはいなかった筈
こりゃあ ・・・書けませんでしょう
たまには観てみるかなあ 映画 骨っぽいやつを
それでは ご自愛ご健筆を
(追伸 バックナンバーに「心中天網島」評がないか探してみます)
そうそう、♪わーかく明るい歌声にー のあの監督ですよね。
それに比べてこちらは、微塵も明るさがないのがすごかったです。笑いもない。
『燃えよ!チャンバラ』・・・燃えるどころじゃないですね。
これと『切腹』は日本二大残酷時代劇だと思います。
『天網島』は書いてません。篠田監督の耽美的な映像や吉右衛門とお志麻さんの良さは、いつか書こうと思っていますが、まだ気合が足りません。『桜の森の満開の下』も書いてないなぁ・・・