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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

八瀬と八瀬童子展を見る

御所に隣接する施設は多い。
寺町通りに面した京都市歴史資料館へ行った。
丁度同志社大学のクラーク記念館補修工事を見た後で、創設者の新島襄の旧宅の隣にそれはある。
新島襄旧宅は和館と洋館がある素敵な家。
P1583.jpg

P1584.jpg

番地の表示板も仁丹の絵があるから、これは昭和初期頃のままだ。
IMGP1582.jpg


歴史資料館。
今回は『八瀬と八瀬童子』展が開催されている。
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/index.html

八瀬は左京区に広がる地域で、大原と比叡山とに隣接している。
壬申の乱のとき、大海人皇子がここの窯風呂で背の矢傷を癒したところからその名がついたという伝承もある。
窯風呂とは釜風呂ではなく、日本古来のサウナ。
昔はこのあたりに八瀬遊園があったが、いつのまにかなくなっていた。
(数ヶ月前見た景色)三条駅でカップルが駅員さんに「えー八瀬遊園てつぶれてたんですかー」「だいぶ前ですよ」言われてカレ氏がショボンになっていた。彼女の方はカレ氏のノスタルジィにつき合う気はなさそうだったが。

わたしが八瀬童子のことを知ったのは、昭和天皇の大葬のときだった。
八瀬童子とは天皇の棺を担ぐのを誇りにされている人々だった。
童子と言うのは別に子供と言う意味ではなく、髪をおかっぱさん・大童(オオワラワ)にして寺社や朝廷などに仕えていた人々の総称で、この八瀬童子の人々は特に天皇の輿丁として仕え、近代以降、大葬では棺を担ぐのだった。
明治天皇・大正天皇の棺も八瀬童子が担いでいる。
ところが昭和天皇の大葬のとき、宮内庁はそれを拒否した・あるいは考慮しなかった。(警備上の理由による)
それで八瀬の人々がたいへん怒ったというニュースを読んだのだ。
結局、大葬当日八瀬童子の代表の方々が棺に付き添い、皇宮警察が実際に担ぐという状況になったようである。
平成も19年になった今でも、そのときの衝撃は残っている。
尤もその直後、帝が都におわした頃、棺が都を行くときに、その棺に向かって「ただいま▲▲の辻を通過いたしました」と道々の地名を囁く役目の人が洛中に住まいするのを知って、絶句した。
死者のための道案内。どう考えても凄かった。

そうした経緯があって八瀬童子に対する関心は強かったのだが、なかなか学ぶ機会がなかった。
数年前この資料館で似たような展覧会があったときも、行くことができなかったのだ。
しかし新聞に案内が出て、しかも近所に出向く用事が出来たので、これ幸いと出かけた。
20年近く経っても、念じていればこうして見たいものに出会えるのだ。

先ほど簡単に八瀬童子のことを説明したが、ここには色々な伝承がある。
まずこの村人たちは自らを<鬼の子孫>と任じている。それは伝教大師との関わりからのことで、彼らは延暦寺にも奉仕していた。
やがて後醍醐天皇のときに天皇の輿を守って功績があったので、八瀬の郷は納税不要という綸旨を受けた。
これは灰色の料紙に書かれている。褪色したのではなく、綸旨の紙とはそんなものらしい。
なんと書いてあるのかはちょっとわたしでは判別できない。
rinji.jpg

朝廷からの庇護もあり、穏やかに暮らしていたようだが、隣接する比叡山との境界争いでは色々苦労したことが、展示資料から伺われる。
しかし叡山焼き討ちをした織田信長からは安堵状を貰ってもいるし、徳川幕府が開いたときも、後陽成天皇からこれまで通りの特権を守る旨の綸旨を受けている。
とはいえ京都所司代の中にはそれを苦く見る者もいたらしい。

やがて比叡山との長年の境界争いに決着がついた。
宝永年間に老中・秋元但馬守が人々の願いを聞き届けたらしい。
それを徳とした八瀬の人々は秋元神社を興して、<赦免地踊り>というものを奉納した。
これは今も続く踊りで、VTRで見るととても綺麗なものだった。
会場内に飾られているのは灯篭である。
tourou.jpg

元から伝わる灯篭祭りに踊りが加わったもので、その灯篭には切り紙細工が付けられている。
六角形の面にそれぞれ赤い紙の切り紙細工で、竜虎や花などの繊細な細工が活きている。
上部には鳥獣戯画のキャラたちが踊っている。
これを頭に載せている。なんでも女装の少年たちがそれを載せているそうだ。ちょっとときめいてしまうなぁ♪
灯篭は毎年作られている。
10月の第二日曜ということなので、いつか見たいと思う。
http://homepage2.nifty.com/sigeharuiori/syamnnti1.htm
こちらにはその画像がある。

会場では装束も展示されている。dress.jpg

他に明治以後地租免除(納税不要)の特権は失われたが、それに相当する下賜金が今も続いているそうで、その書状もあった。

そして宮内庁からの一枚の資料がそこにあった。
昭和天皇の棺を担ぐことが出来なくなった八瀬童子の代表者に対して、付き添いとして参加するなら午前9時半には指定場所に集合するように、その際にはモーニング着用のこと、と書かれた内容だった。
小さな誤字までみつけて、なんとなく私はこの20年近い<追っかけ>が完結したことを、感じたのだった。


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コメント
こんばんは。
八瀬童子のお話、興味深く拝読しました。
以前TVかなんかで、天皇家の棺担ぎの仕事を代々受け継いでいる京都の土地があることを見た気がします。
それが八瀬童子のことだったのだと合点しました。
現代の今にそのような仕事を受け継いでいる土地があるとは、
驚きでしたが、誇り高く継承されているようでした。
六角の灯籠と似た物が上野の東照宮にもありました。
それはとても背の高い、金銅製の、大きな物です。
不思議な形もあるものだと思っていました。
2007/04/16(月) 22:34 | URL | あべまつ #-[ 編集]
あべまつさん こんばんは
京都と言うのはやっぱり千年の都の地です。
大阪は河内王朝や難波宮の後、長らくえらいさんがいないまま過ごし、町人自らの自治で成り立ってきたので、事情が全く違うなと感じました。
太閤さんがいても頭が重いわけでもなかったわけです。
しかしやはり京都は御所に天皇がおわしただけに考えも習慣もちょっと違います。唸るばかりです。

東照宮のは緑青吹いてるあれですね、わたしも見ました。
やっぱり灯籠の系統だと思います。斜めに格子が入っていたような気がしますが、いまちょっと細部が思い出せません。
2007/04/16(月) 22:54 | URL | 遊行七恵 #-[ 編集]
そうでしたか!
大喪の礼の時、棺の輿を担いでいた人達は、装束を身につけ
独特な歩の進め方をしていたので、私はてっきり今の今まで
ずっと、八瀬の童子の方々が担いでいらしたのだとばかり思って
いました。 ということは、あれは中身は皇宮警察官だったの
ですね…。

東京には今の皇居はありますが、天皇さまに関わる何の歴史の
積み重ねもなくて、申し訳なく思っています。 安全の為には
良いのでしょうが、いつか京の都へ戻られる日が来るといいなぁと
漠然と思っています。
2007/04/20(金) 15:51 | URL | 山桜 #lSqELJtw[ 編集]
山桜さん こんばんは
敬神の心が具わる山桜さんだけに、やはりそのことを考えておられましたか。
安全面ではやはり今のほうがよろしいのでしょうが、父祖の地へお帰りになられることがあればなぁ、とわたしもなんとなく感じたりしています。
2007/04/20(金) 17:20 | URL | 遊行 #-[ 編集]
私は、今でも八瀬の童子に、先帝陛下の棺の輿を担いでいただきたかったと思っております。小雨の中神宮球場近くでお見送りをさせていただきましたが、そのことだけが心残りであります。
我が天子の京都へのお帰りは是非実現していただきたい。
2007/07/22(日) 22:46 | URL | 武蔵の住人 #-[ 編集]
武蔵の住人さん こんばんは
古来からのそうした慣わしを守ってほしいと思う半面、警備と言うことを言われればそれもそうだと思いもします。住み難い世になったものです。
色々と難しいことが多く、いらぬことを言う輩も多く、本当に難しいです。
2007/07/22(日) 23:35 | URL | 遊行七恵 #-[ 編集]
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