どこかで何かを楽しんでいる

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どこかで何かを楽しんでいる。
特別展の開催されているミュージアムに行き、それを楽しんでからは必ず常設室に足を向ける。
時々、目玉の展覧会より常設のほうにピカッと輝くものがあったりするので、訪問をやめることは出来ない。
高を括ると必ず報復があるものだ。

挙げるのは、京都文化博物館、大阪市立美術館、府中美術館、埼玉近代美術館、夢二美術館の常設(企画)展である。
そして三月に心斎橋で見た足立美術館展が神戸に巡回し、それを再訪して、新たに感じたことも併せて書く。
まず池大雅。
三月に京都文化博物館で池大雅の名品を色々見ている。
わたしは琳派は好きだが南画はニガテなのでマジメに見なかったが、こうして相対するとしみじみいいものだと感じもする。しかしそれよりえ゛っとなったのは、ここに出ている作品たちが、’95に池大雅美術館から寄贈されたという事実だった。
苔寺の近所にある美術館に足を向けたことはなく、二年ほど前に苔寺の特別参観に出たときついでにと寄ったら閉まっていた、あの美術館。あれ休館ではなく閉館していたのか!
ううむ、するとこの展覧会は実はたいへん貴重な機会だったのだ。
今になり、やっとそのことを知ったわたし。

出ていたのは『柳下童子図』 八曲一隻。その解説がチラシにも掲載されている。
クリックすると解説文も見えると思う。
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わたしが気に入ったのは『三酸図』 仏教も儒教も道教もみんな同じく酸っぱいものを舐めて笑っている図。なんとなく可愛い感じがした。
そしてそれは『寒山拾得図』でもそうで、池大雅が描く人物たちはのんびり大らかな顔つきをしている。間違っても蕭白的キャラにはならない。

めでたい『一富士ニ鷹三茄子図』 墨絵で初夢のめでた尽くしが描かれている。これは誰かに頼まれて描いたものだと思う。いい感じだった。衒いもなくまっすぐに描いている。

次いで奈良のお水取りを見た日、春日大社の宝物殿を訪れていた。
クリックすると現れる写真たちは、宝物殿の外に貼られたものを撮影。
中で見たのはこれら工芸品と、若宮おん祭の衣裳など。
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クリックしてください。

ぶりぶりもあるし、犬張子や貝合わせと言った雅な遊び道具が揃っていた。
これらは寄贈された品々かもしれない。
またこちらの鶴たちは金具工芸というか、金属工芸品で、元は何かに付けられていたものではないだろうか。
そんなことを思いながら見て回るのも、楽しかった。

基本的に工芸品が好きだ。
しかしあまりに数が多いと目が廻る。それで挙げることが出来なかったのが、大阪市美術館に所蔵されているカザール・コレクションの根付や印籠・蒔絵香合たち。
とにかく5cm以下のサイズに宇宙がある。
今のケータイストラップたちは大方が大量生産品だが、この根付たちは違う。職人一人一人の個性が際立つ凄い代物なのだ。そのくせ多くの場合、彼らの名前は伝わらない。
渡辺綱、朝比奈、黄石老といった説話のキャラたち、猿の蛸取り、蘭陵王、狸和尚、象と唐子たち、他にもうずくまる虎、木賊うさぎ、吠えるトラなどなど・・・それらの造形を、木彫りや象牙彫りなどで作り出しているのだ。
象嵌もあれば堆朱もあるし、戸袋象嵌というややこしい技能を見せるものもある。
江戸の職人芸は明治にも伝わる。
さすが明治だと思ったのは、太平記のエピソードを形にしているものを見たときだ。
新羅三郎善光が笙を吹いている。鍾馗が剣を踏む図柄は旧幕時代から伝わるが、太平記は明治になってからのブームを待たねばならない。
なかなか面白いものを見せてもらっているのだった。

大阪市は財政困難だからか、美術品が一般市民からの寄贈によるものと言う性質上からか、あまりレプリカを作ろうとしない。
絵葉書もほんの一部だけに過ぎず、全容を見渡すのは不可能に近いのではないかと思われる。
ボストン美術館にも大量にこの手の愛らしいコレクションがある。
日本人にとってはあまりに当たり前の存在だったこれら愛玩の小品は、明治になると見捨てられてしまい、外国へ大量に流れていった。
帰国したのは数十年後のことで、今になってわたしたちはこれら可愛い・精緻な・見事な工芸品に、感嘆のため息をついている。
故・高円宮さまのコレクションも幾度か眺める機会があったが、宮様は現代の匠が拵えたものをもコレクションされていた。
細い糸のつながりかもしれぬが、そうして伝統工芸はなんとか命脈をつないでいるのを知って、小さく安堵した。

続いて洋画の展示を眺めた。
明治初めの百武兼行『壷を持つ女』 これはブルガリア風俗の女の姿なのだが、百武は他にもこの人をモデルにして作品を残している。
白いブラウスに飾りがあり、顔立ちも当時の日本人から見て、まだ親しみのある感じがする。汚れなのかほくろなのか、額に目がいった。

満谷国四郎『素焼陶工』 満谷の回顧展がないものかと思う。満谷の黄土色の肌の女たちを飽きるまで眺めていたい。
素焼を完成させるには晴天が必要だ。乾いた土、サボテンのような植物が活きている。働く人々。
ふと日本画家の都路華香の『埴輪工房』を思い出した。雨は恵みでもあるが、職業によっては困るものでもある。
イソップの寓話にもそんな話があった。

青木繁『女の顔』 彼の描く女は、二種類に分かれている。福田たねとそれ以外だ。これは福田たねの顔。意思的な女の顔がそこにある。青木の子供を身ごもったまま、青木を<捨て>他の男に嫁ぎ、生涯を全うした女。
その強さを感じさせる顔だった。

岡田三郎助の裸婦が二枚出ていた。
晩年の作と、多分若い頃から壮年期の作とが。
萌黄色よりもう少し明るい地に寝転び、背を露わにする女。
そして赤と金の布に座り背を向ける女。白い背がはっきりとある。
二枚の間に時間の流れを感じる。しかしどちらも共によかった。

小磯良平『裸婦』 座って髪をかきあげる仕種が、なんとも言えずいい。白く綺麗な女。

レオナール・フジタ『天使』 フランスに<帰って>からのフジタの女たちは、皆一様に口をつぐんでいる。この眠る女も意思的に口をつぐんで眠っている。その彼女に屈むように三人の天使がいる。『夢』などでもそうだが、フジタの女たちは眠るとき、決して一人ではない。必ず異形のものや動物たちなどが彼女のそばにいる。

他に椿貞雄、村山槐多、岸田劉生、中川一政らの描いた肖像画が並んでいた。いずれもアクの強い筆致だった。

続いて風景画・静物画。
長谷川利行『花』 たぶん、カーネーション。私が花を知らないから、というだけでない理由の<たぶん>。
曽宮一念『ざぼん』 切った断面が赤い色を見せている。ざぼんは黄色いと思っていたが、赤いのだろうか。それともこれは傷んでいるのか。曽宮の作品に対して鈴木新太郎の言った言葉が蘇ってくる・・・・・
佐伯祐三『巴里の寺院』 ゴシック建築の美を感じる。絵そのものもいいが、建築への愛着が生まれてくる絵。
鳥海青児『北京天壇』 梅原ばかりが北京を描いたわけではない。藍色の空を突くような天壇。’41の北京の空は藍色を見せていたのかもしれない。
梅原龍三郎『カンヌ風景』 青色と夕日の赤と金色の織り成す絶妙な世界。なんだか凄いものを見せてもらった。
岡鹿之助『林間の城』 点描が清楚で静謐な趣を見せてくれるいつもの岡の世界。城を真正面から捉え、時計と鐘とが眼を惹いた。

そして日本画へ。
谷中香嶠『淀殿』 大阪城夏の陣の最中、いよいよ最期の時が近づいている。薙刀を持つものの、それを振るうことはまずありえない。垂髪の幾筋かを噛み締める。もう、どこにも行き場はないのだった。

前田青邨『洞窟の頼朝』 色々なバージョンがあるが、これは割りと各地の展覧会にも出張する作品。前に立って「コンニチハ」と挨拶したくなる。

菅楯彦『舟笛驚龍』 月下に高士が笛を吹く。その音色に二匹の龍が驚いて、姿を現す。白で統一された画面に龍と人とのバランスも巧みで、音色がこちらにも届きそうな気がした。

中村大三郎『慶長美人』 中村独特の切れ長の目の女がいる。髪は頭頂で三つに分かれて曲げられている。艶冶な女。

今村紫虹『伊勢物語』 金屏風に秋草と二人の人物を描いている。桔梗が可愛い。馬に乗るのが業平だろうが、ついている少年が実に美童だった。

北沢映月『北政所』 久しぶりに見た。静かなトーンの色彩がいいといつも思う。

北野恒富『七夕』 これはこの大阪市立美術館誉れの『星を見る』とは違う作品で、中国の説話を描いたものだ。織姫の白い衣、糸を通そうとするしぐさ、足元には金のつたが。・・・もしかすると『星を見る』彼女はこの情景を見ているのかもしれない。

青木大乗『巌渓』 墨絵の力強さがここにある。岩に打ち付ける波を見る猿。岩に溶け込みそうな小さな存在。波濤はあくまでも力強い。
この作品が’70だというのも、なんとなく面白い。

以前少しだけ書いたが、浄土教の絵画の優品も見ている。
関西には古いお寺が大変多い。寺宝も多く残る。それらを管理して展示することも、美術館の大事な仕事の一つだ。

今回鎌倉時代の当麻曼荼羅にいいものを観た。
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当麻曼荼羅の「一目でわかる」図解表もついていて、嬉しい。何しろ『死者の書』で多少覚えたとは言え、この図像学をきちんと理解するのは難しい。中将姫の尼姿の肖像画もあった。静かなまなざしの白い顔だった。
この姫は本願を立てて後の姿だと思う。継子苛めの果ての出家ではなく。

六道絵のうち念仏証拠 ああそうなの、とは見てからの言葉になる。六道絵は大抵が修羅道、畜生道、地獄など「風景画」で、こうした「状況」を描いたものはあまり見ない。
しかし当然ながら『往生要集』が元ネタである以上、そうした救いもなければならない。
生前マジメに(ここが大切だ)念仏を唱えていたので、地獄の責め苦の中でも助かります、と言う仏と人間との契約が描かれている。まるで念仏とは遂行される保険のようだ。
地獄の釜で茹でられる信徒が救われる。釜が割れ湯が零れ、信徒は位のある天使のように、生首だけの存在として描かれる。首の下は蓮の葉に変わる・・・
あ、待てよ。生前マジメなら地獄に落ちるはずもないか。解説を読もう。
・・・ここで救われているのは地獄に落ちて初めて念仏を唱えた男らしい。天界の妻から勧められて唱えた途端、助かったそうだ。

大阪の平野に融通念仏宗の総本山・大念佛寺がある。ここは夏には幽霊の絵を一般公開することで知られているお寺で、百万遍の数珠繰りでも知られている。本堂にはそれ用のたいへん長い長い数珠が天井に掛け回されている。
その寺からの縁起絵巻などもある。頓死した尼さんの地獄巡りツアー(蘇生つき)などなかなか面白い。

ギメを見たときにこんな名品を併せてみていたのだ。

次に弥生美術館で『蕗谷虹児』を見た後に、併設の夢二美術館で企画展『山に寄する』を見たときの感想を少し。
山に寄する、とは夢二と最愛の恋人・笠井彦乃との合言葉から来たもので、彦乃の死後に夢二が作った作品。忠臣蔵のように山、川を合言葉にして関係を深めていたのだが、彦乃は親元に引き戻されてそのまま死んでゆく。夢二も哀しかったろうが、親御さんも悲しいし口惜しかったろう。
夢二は人物画だけでなく、風景画も多いが、山の絵が意外に多いのは、かつての愛の日々をしのんでのことなのかもしれない。
今回そんなことを考えながら絵を見て回った。
女の身体を山に見立てたものもある。
どの山にも彦乃がいるのかもしれない。

不意に思い出した。無関係なことなのだが。
武田泰淳が井上靖と石川淳の違いをこんな風に書いていた。
「・・・(女をくどくとき)井上靖はこう書く。女がどうしたの、と訊く。「考えていたんだ。女の人のカラダのこと」 石川淳なら「てめぇと寝たいのさ」と書くところを井上はこう書く」
正確な文章ではないが、読んだとき笑ってしまった。そしてそれをこの山の絵を前にして、思い出している。

本人たちがよければそれでいい、というわけにはいかないのを感じると同時に、なるほどやっぱり夢二は女に惚れるし女に惚れられるな、と感じる展覧会だった。

併設の高畠華宵の企画展は後日別項を設ける。

澁澤龍彦の幻想美術館が開催されている埼玉近代美術館では、企画展もなかなかよかった。300点ほどの澁澤の愛した美術品を眺めた身は、疲労と陶酔で螺旋を描いていたが、日本画と洋画を眺める余力は、まだ残っていた。
何しろここには偏愛の小村雪岱と小茂田青樹の作品がある。
澁澤の『偏愛的作家論』ではないが、やはり偏愛の画家たちの作品だけは這いずってでも見たいものだ。

その小村雪岱。以前から見知っていた座敷の絵。
青畳のすがすがしさ。三味線がぽつんと置かれている。
鏡花の芸者、邦枝完二の水茶屋の女、どちらかがその三味線の持ち主なのだろう。
女の不在が、却ってその水際立った美しさを感じさせる。
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クリックしてください。
『落ち葉』 この絵の記憶がない。しかし実際には絵葉書を持っている。初めて本物に出会えたのだ。だから新しい気持ちで向き合える。
しみじみいい絵だと思う。
雪岱の随筆『日本橋檜物町』の一節がそのまま絵になったような、そんな。

色々な猫の絵を見ているが、小茂田の春の夜の猫はたまらなくいい。
以前にも『梅花』特集のときにご登場願ったが、本当にいい。


洋画へ。
シャガール『二つの花束』遠くから一目見たとき、てっきり普通の室内からベランダにある花瓶を見た絵かと思ったら、大間違いだった。
男の人の帽子のように、花籠がかぶられている。そんな絵。
何しろ天地無用のシャガールだから、いきなり空を飛んでも不思議ではないから、普通の風景画の方が不審に思えた。しかしこうしてちゃんとそこから逸脱している。なにやら嬉しい気がした。

斉藤与里『朝』 この人の絵は時々モーリス・ドニを思う。
森の中にユートピアがあるような気がする。
そこへたどり着けるかどうかは別としても。
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寺井力三郎『寝る子』 猫といっしょに子供が寝ている。猫も大きい。白地にキジの大きな猫で、肉球がいい色をしている。
ああ、幸せそうだ・・・・・・・

若い頃の山本容子の作品もある。まだ今にたどり着く前の状況。
わたしは五十代の女の人では、彼女が一番いいなと思う。
すごく、かっこいい・・・・・。
(素直に書くと、照れてしまった)


最後に府中美術館で見た風景画について。
タイトルはこうだった。『絵の中の風景 江戸・バルビゾン・府中 』
府中から小金井辺りを、そのかみの芸術家たちは(勝手に)日本のバルビゾンと呼んでいたらしい。確かにこの界隈は今も緑が多く、田園も見える。狸飛び出し注意の看板もある。
わたしが子供だった’70?’80年代、小金井の叔母のところに泊りがけに行くと、いつも憂鬱になった。何もないのである。何もないというのはつまり、緑と家と寺しかないのである。
駅にはバスで出る。林にいる蝉は関西には少ないミンミンゼミ。
心細かった。ただただ心細い。
それでいまだにこの界隈に来ると、変な孤独感に襲われてしまう。
だからか、府中から小金井そして花小金井へのバスに乗ると、必ず見知らぬ奥さんがわたしになんだかんだと話しかけてきて、世話を焼いてくださる。よっぽどわたしがしょぼくれているのが心配になるのか、先日などバスを降りた後、手を振る人もいた。(三月の話だ)
考えれば不思議なことかもしれない。見知らぬ奥さん方、ありがとう・・・。

その風景。
五百城文哉『小金井の桜』 小金井の桜は昔も今も有名らしく、茶店と橋が描かれているがさぞ賑わったろうと思わせた。明治の油絵らしい、油絵。
関西美術院の洋画家たちの作品が色々掛かっていた。そこから二点ばかり。
伊藤快彦『山間清涼』 藤棚だろうか、その下で休む人々がある。山の上に吹く風は心地よいものだ。気持ちよさそうだった。
都鳥英喜『風景』 丁度百年前の絵画。この頃は<洋画家>ではなく<油絵師>だったと言うのが、実感として伝わってくる。
本多錦吉郎『景色』 兵庫県美術館にあるナゾな天女像の人がこんな景色を描くのか、とちょっと驚いた。しかし本当に明治と言う時代を感じる。いいとか悪いとか以前の問題で、不思議な感覚だった。

大正になり、ちょっと馴染んだ洋画が現れる。
児島虎次郎『ルクサンブール公演の噴水』 ワールドカップのような形の噴水から水がジャワジャワ噴き出し続ける。洋画家はこの公園が好きだ。
わたしも気に入っている。
梅原龍三郎『台湾風景』 寺か何かを描いている。梅原らしい明るい色彩に、中華独特のハデハデさが加わって、なんだかむやみに元気になるような風景だった。

他にも色々いい絵を見た。見たがここでおく。
それからこちらは続報と言うか、番外編。

大丸神戸店で再び足立美術館の名品展を見た。
大方の内容はこちらに詳述しているが、
http://yugyofromhere.blog8.fc2.com/blog-entry-783.html
場所と時間が変化すると、前回見えていなかったものも見えてくるようになる。
以下、続編だと言うことで。
大観『漁人』 墨絵のにじみ・ぼかしがのんびりした作品で、近く眺めれば漁人の一人が鯛を釣り上げていることに気づく。他の二人はまだ魚信もない。鯛はアララな顔をしている。
遠くからこの作品を眺めると、中国の東海で釣りをする景色にも見えてくる。
卑近と遠望とで作品の味わいが変わったことに気づく。
これはたいへん面白い作品ではないか。
かなり感心して眺めた。

楠公夫人の絵が入った。
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前回と同じく、夫人の静けさと凛とした物腰に惹かれる。そして今回新たに彼女の眼差しに気づいた。凛としながらも夫人の目は深い憂いに満ちていた。そのことに遅ればせながらも気づけてよかった、と思う。

長々と書き損ねていたことを書けて嬉しい気持がある。はしょりすぎているが、これでもいい。また書ききれない展覧会はどんどんあふれてくるはずだ。
そのときにはこうして集めてみよう。記憶と記録のために。



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