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美術館・博物館・デパートでの展覧会を訪ね歩き、近代建築を見て周り、歌舞伎・映画・物語に溺れる日々の『遊びに行った日を記す』場所です。 

天体と宇宙の美学

天体と宇宙の美学 と聞いたとき、わたしの脳裏にはある作家のイメージが浮かんだ。
一人は<宇宙建築師ブルーノ・タウト>、もう一人は鉛筆の画家・建石修志。
そして言葉が浮かぶ。
「このからだ そらのみぢんにちらばれ」
宮沢賢治『春と修羅』の50節目。
わたしにとって『天体と宇宙の美学』とは彼ら三人の作品なのだった。

滋賀近代美術館では明日までその名の展覧会が開催されている。
瀬田からバスに乗るので家からは2時間かかる。それでも出かけた。
チラシにはわたしの挙げた人々の名はないが、それでも惹かれるものがそこにある。
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最初にデューラーの木版画がある。
『ヨハネ黙示録』より『太陽の女と七つの頭を持つ龍』
これば第12章「一人の女が太陽を纏い、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠を戴く・・・」それを描いたもの。煌く星々を頭上に戴いた女を見ていると、五百年の時間よりもっと遠い時間を感じ始める。七つ頭の悪龍毒蛇よりもこの女の方が静かに怖い。
デューラーかブレイクでないとこのイメージは描ききれないような気がした。

ギュスターヴ・ドレ『ダンテ 地獄篇』より三つの情景が描かれている。
ウェルギリウスとダンテ(日暮れ) もう日暮れではなく夜の情景に変わっている。三日月と星が出ている。その下に二人がいる。
地獄から現れた詩人たち 崖上に立ち、星を指し示す詩人たちがいる。『神曲』を読んだのは中学生のころなので、理解度が低かったが、今もう一度読みたくなった。
煉獄と言う言葉を知ったのもダンテからだった。

バーン=ジョーンズ『フラワーブック』より
『黄金の門』 光を放つ球体を持つ天使たち。バーン=ジョーンズの天使たちは皆大人の姿をしている。わたしはこのシリーズをまとめたタッシェンの画集を所持している。リトグラフとは言え実際に見ることが出来て嬉しい。
『ヴィーナスの手鏡』 満月を向こうに見る露わな背を見せる女神。爪先は湖に浸っているが、宙に坐している。白い鳩達が彼女を取り巻く。月を手鏡に見立てるのは美神だけに許された特権かもしれない。

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高島野十郎『林辺太陽』 昨年だったか、三鷹での回顧展で多くの観客の心に不可思議な印象を刻んだ高島野十郎の作品が二枚出ていた。どちらも東大医科学研究所の所蔵で、どちらもやはり不可思議な作品に見える。東大医科学研究所と言う機関がなにをどう研究するのかは知らないが、その機関にこれらの作品が収められていること自体に、わたしはなんとなく高島の静謐な不気味さを感じ取ってしまう。終末、と言う言葉を思い起こすような太陽の色が、林の中にあった。

山口薫『金環蝕の若駒』『若い月の踊り』 これらは共に'68年の作品で、対のような味わいがある。
緑色の金環触の下に数頭の赤い馬が佇む。蝕まれた月の死と再生の後、馬たちは喜んで生の踊りを披露するようだった。

柄澤斎『日蝕の予兆 或は月と太陽の婚姻』 井戸組のような方位計の上に天使が向かい合って立つ。それぞれが差し出すのは月と太陽。天体の媾いが日蝕と言う現象なのを、面白く思った。

『死と変容』 流星群の中、大きな羽を抱え(或は包み込まれ)、幼子は目を閉ざしたままどこへ向かおうとするのか。天使だったならば、それは捥がれた羽なのか。
この作品がギャルリー宮脇所蔵だと言うことに、ときめいている。

コーネルの宇宙はやはり箱の中にある。箱の外には何も存在しない、無の空間が広がる。たぶん、永遠に。

谷中安規の版画がいくつか。彼の月は満月ばかりだった。奇妙な町、奇妙な空間、奇妙な人々。
しかし月は円く全てを照らし出している。

数年前、伊丹市美術館で深沢幸雄の回顧展を見た。
私にしては珍しく現代の人の作品を観た。
メタリックゴールドと渋い色調との調和に惹かれた。
メゾチントとアクアチントで作られた作品。『月光劇場』というタイトルそのものが愛しい。

駒井哲郎『月の兎』 わたしはこの作品を「ほー顔のウサギ」と人に説明する。ウサギが感心して「ほー」と感嘆の声をあげる顔。それがこの作品だとわたしは思っている。

田中恭吉、藤森静雄、恩地孝四郎。『月映』を本来のわたしなら一番に挙げるべきなのだが、今日は静かに眺めるのみだった。

彼らと同じ時代に長谷川潔は、日夏耿之介のためにときめくようなエッチング作品を生み出している。
女の横顔、その頭上の周囲をめぐるゾディアック。カプリコーンとピスケスが見える。
ふと思い出したが、シュールなギャグマンガを多く描いた杉浦茂は、不意に脈絡もなく宇宙や天体を描き、そこにキャラクターたちと共に自分の好きな女優の肖像をコラージュしていた。
彼の作品もまた、この展覧会の範疇に入るように思う。


クレー『ベヨッテの街を照らす満月』 白線で描かれた街は背景に呑み込まれはしないが、浸食されている。骨だけが残ったようにも見える。街はそれでも生きているが、生命は最初からなかったようだ。

現代芸術に関心が向かないくせに、こうしたコンセプトでなら、何故わたしは熱心にみつめてしまうのだろう。今、柄澤斎の作品をもっと知りたいと思っている。

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